日本自動車百年史 第1章 前史

第5節 欧米に誕生した蒸気エンジン付自転車


1.5.1風刺画に描かれた蒸気自転車
1.5.2オートバイの始祖ー蒸気ベロシペードの誕生
1.5.3蒸気エンジン付自転車の変遷
1.5.4蒸気エンジンの限界
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1.5.1風刺画に描かれた蒸気自転車

 欧州では自転車に動力機関を搭載しようとする発想が、自転車の誕生とほぼ同時に発生していた。
 1818年にフランスで発行された上の絵(写真1)には、足で地を蹴って進む2輪車、ドライジーネの後部に蒸気機関とおぼしき動力装置が積まれている。しかしこれはパリの時事漫画家が描いたたんなる想像画にすぎず、このような乗り物が実際に製作されたという記録はどこにもない。
 ドライジーネはこの絵の前年にあたる1887年に、カール・フォン・ドライス男爵によりドイツで初めて特許が取得されたばかりだった。またドライスは1818年2月にフランスでも特許を申請し、この新案を売り込んでいた。パリで発行された同年4月7日付の新聞には、市内のリュクセンブルグ公園で、ドライスがドライジーネに乗り公衆の間を行進して話題をまいた様子が記されている。その新聞記事は新発明のドライジーネに対して、まったく実用性はなく、子供用の玩具にしかなりえないと批判的であった。
 上の絵に添えられた解説には、ドイツで発明されたこの「蒸気駆動ベロシペード」が4日後の4月5日にリュクセンブルグ公園で試走するだろうと予告している。しかしじっさいには試走が行なわれることはなく、画家は風刺を込めて、冗談としてこの絵を書いたものであった。恐らくはその直前に行なわれたドライスによるドライジーネの公開にヒントを得て、想像をめぐらしながら描いたにちがいない。まるでかちかち山のような「蒸気駆動ベロシペード」の後方には、釜焚きと石炭運びに携わる3名の人夫が付き添い、その非実用的で大仕掛けな様子が誇張されているようだ。イギリスでリチャード・トレビシックの蒸気機関車が試走に成功した1804年から14年が経過したこの時期では、蒸気エンジンをブラックボックスのようにとらえ、あらゆる乗り物へ搭載する発想が展開していたのである。
 ドライジーネは自転車の始祖と呼ばれるように、ヨーロッパ人が作った初めて2輪走行を行なうための機械であった。それが誕生とほぼ同時期にこのような風刺画として描かれていたことは、オートバイの構想が自転車の起源の段階からすでに芽生えていたことを示していよう。そして原動機として想定されたのは、18世紀の終わりに開発が進み、すでに実用段階に入っていた蒸気機関だったのである。
 また右の絵(写真2)は9年後の1827年にイギリスで書かれた、やはり架空の風刺画であるが、この時期になると画家の想像は、もう少し具体化している。1825年には世界初の定期鉄道路線がイギリスで開通しており、蒸気機関は陸上交通手段の動力としても、身近なものになりつつあった。搭載された蒸気エンジンは、冒頭の絵のようなブラックボックス的な表現から一歩すすんだ形状に変化し、さらに重い蒸気エンジンを支えるために車体を3輪として描いている。
 ただしこの絵でも後部にはボイラーマンがチョコンと乗り込み、さらに燃料の石炭をストックした人夫がスコップを持って待っている。人夫達の暗い表情に反して、すっかり悦に入っているカップルの様子などは、当時の上流階級の新しもの好きの風潮を皮肉ったもの。当時の風刺画家には、(写真1)の絵や、また前出の日本の錦絵にも通ずる共通のセンスがあったのだろう。
 
1.5.2オートバイの始祖ー蒸気ベロシペードの誕生

 

 さて(写真1)の絵に現れた蒸気機関付2輪車のコンセプトを試作に移し、走行に成功した記録は、51年後の1869年にようやく現われる。この半世紀の間に欧州の機械工作技術は飛躍的に進化し、ポータブルな小型蒸気エンジンの製作が実現していた。自転車に初めて動力源が搭載され走行したものとは、いうまでもなく史上初めて製作されたオートバイであり、現在までに確認されている記録の中ではこの1869年の試作が最古である。
 この年に誕生したオートバイの始祖には、まずフランスで製作されたペローの蒸気ベロシペードが挙げられる。また大西洋を隔てた同年のアメリカでも、蒸気エンジン付きベロシペードが製作されていた。この2つの蒸気ベロシペードはいずれも当時の原車が保存されており、その史実を雄弁に伝えている。


1869年ミショー-ペロー蒸気ベロシペード(仏)

 前出のドライジーネの前輪にペダルクランクが付き、初めて持続する推進力を得た自転車の嚆矢は、1861年にフランスのピエール・ミショー親子が製作したベロシペード(写真3)であった。パリのミショー工場では、初年の1861年にはわずか2台のベロシペードを製作しただけだったが、翌年には140台を、2年後には400台を製作販売していた。そして5年足らずのうちには欧米の各国にライセンス生産が広がり、急速に普及していく。つまり史上初めて量産された自転車というのもこのベロシペードだったことになる。

 ミショー工場で製作されたベロシペードに自作のアルコール焚き小型蒸気エンジンを搭載したのは、フランスの発明家ルイ・ギローム・ペロー(1816-1889)であった。ペローはその蒸気ベロシペードに関する特許を、1868年12月26日に初めて申請している。翌1869年には試作車を完成させた。フランスのロベ−ル・グランセーヌ・コレクションに現存する原車(写真4)は1871年に改良が加えられたものと推定される。
 この蒸気ベロシペードは、鍛鉄製のフレームと輪金をはめた木製輪を持つミショー製ベロシペードのフレーム上に、精巧な小型蒸気エンジンをマウントしたもので、車重は61kgと意外に軽い。同型のミショー製ベロシペードの車重は26kgといわれ、これを差引くとエンジン部の総重量は35kgだったと考えられる。
 エンジンは通称「首振りエンジン」と呼ばれるダブルアクティングエンジンの単気筒で、真鍮製のシリンダーと鉄製ピストンが使われている。(写真5)の図からもわかるようにクランクシャフトの両側にふたつのフライホィールを持ち、両側のプーリーから左右2本の革製丸ベルトを介して後輪の鉄製スポークに取付けられた大きなプーリーを駆動して走行する。無論クラッチや変速機などはなく、円筒形のアルコール焚きマルチチューブボイラーの背中には、上にアルコールタンク、下に水タンクが配置されている。
 この手の首振りエンジンは正転、逆転ともに可能であった。そのためまずステアリングヘッド前方に付いた圧力計でレギュレータの圧力を確認しながら、車体を少し前に押し出すことにより走行を開始する。もし後ろに動かし始めた場合は、そのまま後ろに走り出してしまうだろう。またエンジンの減速も非常に緩慢で、有効な制動装置を持たないこの蒸気ベロシペードを停止させることは至難の業だったと思われる。サドル位置や重心もかなり高く、操縦には熟練を要したに違いない。


 ペローの蒸気ベロシペードはパリ〜サンジェルマン間15kmを平均速度15km/hで走行したと伝えられている。この水とアルコールのタンク容量では、航続距離はさほど長くはなかったであろう。
 この試作から、ペローは重い蒸気エンジンを2輪に搭載することの限界を認識したようで、1878年にはベロシペードの車体を3輪化し、改めて特許を申請している。(写真6)はその3輪車の絵であり、ツインベルトを使用した点でまでは2輪の時と同じだが、前輪駆動としている点には驚かされる。この3輪車は現存していないが、1878年にペローがこれを3,000フランで販売したとの記録が残っており、少なくとも一台製作したことは間違いない。
 1869年ローパー蒸気ベロシペード(米)
 ワシントンのスミソニアン博物館に保存されている蒸気エンジン付ベロシペード(写真7・8)も、1869年の製作と伝えられている。この2輪車は、かつてはマサチューセッツ州ウィンソープ出身のW・W・オースチンという名の興業師が発明したと考えられていたが、戦後に行なわれた調査により、同州ロクスバリーの技師シルベスター・ハワード・ローパー(1823〜1896)が製作していたことが確認された。この蒸気ベロシペードが、W・W・オースチンによって1868年以降、米国東部各地のサーカスや祭で見せ物として公開されていたために、当初はオースチンの名前だけが伝わったものであった。
 ローパーは1859年から蒸気機関の試作を行なっていたといわれ、1865年にはまず蒸気エンジン付きのふたり乗り4輪車を試作していた。
 米国には遅くとも1866年には、フランスからベロシペードの特許が伝わっていたようだ(写真9)。ローパーの蒸気ベロシペードは、エンジンを除く車体の部分に、ハーロンブラザーズという名の工場が製作したヒッコリー(クルミの木)材で出来たフレームを持つベロシペードを使用している。ハーロンブラザーズはこのベロシペードを「ベロ・ギムナスツ」という名前で販売し、また祭などの見せ物にも出していたという。ローパーが石炭焚きの蒸気エンジンを製作し、「ベロ・ギムナスツ」に搭載したわけである。



 現存するローパーの蒸気ベロシペードは全長2,107mm、軸距離1,244mm、木製輪は前後同径の863mmである。木製のフレームの中央にはボイラーがスプリングマウントにより吊り下げられ、太い煙突が後ろに傾斜しながら立ち上がっている。ボイラーの上には内径57mmのシリンダーがフレームに沿って2本並列に置かれ、コンロッドが直接後輪軸まで伸び、後輪軸両端のオーバーハングクランクを回転させて走行する。つまりベルトなどで伝動するのではなく、2気筒の蒸気エンジンのコンロッドが直接後輪のアクセルシャフトを駆動させる方式である。長さ63mmのクランクの左右の位相は、外観から見るかぎり左側が90度前進している。またピストンバルブはシリンダーの両側に配置され、後輪軸からの長いロッドによって開閉する。水タンクは長いサドルと一体であり、水は手動と自動の2つの給水ポンプによりボイラーへ送られている。ボイラ上には安全弁があり、ダンパーバルブによって作動し、細い蒸気パイプが煙突の下へつながっている。
 この蒸気ベロシペードを走らせるには、まずボイラー左側の丸窓から石炭を投入して釜に火を入れ、蒸気の圧力が高まったことをサドル先端に付いた圧力計で確認してから、ボイラーの上にあるレギュレータを、ハンドルバーの中央に巻き付けたコードでコントロールしてスタートする。ハンドルのツイストグリップを前に回すとレギュレータが開きエンジンが回り出し、後ろに回すと前輪のスプーンブレーキが作動するようになっている。
 ローパーの蒸気エンジンもペローのものと同じダブルアクティングエンジンだが、最大の違いは2気筒であること、そして石炭焚きのボイラーを持っている点にある。ペローのエンジンは何といっても非常に軽量で精密に作られていることに驚かされるが、ローパーのものはかなり強力な蒸気エンジンだったように思える。また円筒形のボイラーがフレーム中央から吊り下げられているため、重心はペローのものよりはるかに低い。これなら馬と競走したという話もうなずける仕上りである。太い煙突のレイアウトなどは視覚的にも見るからに逞しそうで、全体に後年のアメリカ製オートバイの、馬を思わせるイメージがすでに表われているようにもみえる。
 ローパーは蒸気ベロシペードと蒸気バギーを合わせて約10台製作したといわれるが、その製作期間は長く、(写真10)の新聞広告でもわかるように、1869年から数えると27年後も同じこの形状で興業が続けられていた。スミソニアンに現存する蒸気ベロシペードが初年の1869年に製作されたままの形状を留めているかどうかは疑問だが、これがそれなりの耐久性を有していたことは確かであろう。興業師オースチンが、ローパーの蒸気ベロシペードに乗って走行した距離の合計は3,500kmに及んだといわれる。
 ローパー自身は1896年6月1日に、ボストンの自転車競技場チャールズリバートラックでテスト中に事故死した。享年73才だったと伝えられている。






 
1.5.3蒸気エンジン付自転車の変遷

 1881年パーキンス-ベートマン蒸気トライシクル(英)

 イギリスで蒸気エンジンを2輪の自転車に搭載して成功した例は、19世紀中には現われない。ガソリンエンジンの登場以前にイギリスで蒸気エンジンを自転車に搭載した試みといえば、3輪車を使った1881年のパーキンス-ベートマン(写真11)がまず第一に挙げられる。
 この3輪車のベースとなったのはチェイルスモア(英)製のソリッドゴムタイヤのトライシクル(写真12)であった。設計と資金提供を行なったのはトーマス・パーキンス准男爵、製作はロンドン在住のアーサー・H・ベートマンであった。(写真11)は1912年に撮影されたもので、多少部品を損失しているが、全体の構成からみて写真右側の小径輪の方向に前進したものと思われる。
 コンパクトな蒸気エンジンはダブルアクティングの2気筒で、燃料には石油発動機用の軽油が使用された。駆動はドライブシャフトを介して、ベベルギヤにより右側(写真手前側)の車輪を回転させている。
 この蒸気トライシクルは1881年のスタンレイサイクルショーに出品され、デモ走行を行ない、少ないながらも何台かの注文を受けたといわれる。ただしこの時期のイギリスは、1861年に始まった赤旗令の施行期間中であり、エンジン付の車輌が公道を走行することは不可能に近かった。そのためこの蒸気トライシクルものちの発展をみずに終わっている。


 1884年コープランド蒸気オーディナリ(米)

 アメリカではローパーから15年遅れて、もう1台の蒸気エンジン付自転車が誕生している。
 1880年代になると欧米の自転車の主流はベロシペードからオーディナリの時代へと移っていた。ベロシペードをさらに駿足にするために駆動輪である前輪の直径を拡大したのがオーディナリであり、欧州では前輪の大きなスタイルが標準化していく。ところがアメリカでは一風かわった後輪駆動のオーディナリも誕生していた。欧州型のオーディナリの前後輪を逆に配置したような、このオーディナリを製作したのは、東北部コネチカット州のイーグル自転車製造会社と、東部ニュージャージー州のH・B・スミス機械会社である、それぞれイーグルとスターという名前で販売していた。なかでもスター(写真13)はペダルクランクではなく、ペダルとリンクを使った変則的な駆動方法を採用した自転車であった。

 このスターに小型蒸気エンジンを搭載したのが、南西部アリゾナ州フェニックスのルシアス・D・コープランドとW・E・コープランドの兄弟であった。オーディナリ自転車に原動機、とくに蒸気エンジンを搭載した例は他にはなく、珍しいケースと呼べよう。それだけ時代がひと足遅かったともいえるが、そのぶんコープランドの蒸気エンジンは精巧な仕上りをみせている。  コープランドは1881年に、まずコロンビアという名のアメリカ製オーディナリに補助エンジンを搭載して最初の試作車を製作した。コロンビアとは一般的な欧州製オーディナリ同様に、大きな前輪をもつ前輪駆動のオーディナリであった。この試作車はコープランドに言わせれば「非常に危険で効果なし」の、失敗作だったようだ。そこで次に製作したのが、スターを使った蒸気オーディナリ(写真14)だったのである。
 スターに搭載したコープランドの蒸気エンジンは、非常に軽量で精巧な灯油焚きの単気筒で、シリンダーはフロントフレームに倒立にマウントされ、革製の平ベルトを介して後輪の右側に付いた巨大なプーリーを駆動していた。時速20km/hほどで走行することに成功したコープランドは、この蒸気オーディナリを1884年秋に、地元フェニックスで開かれたマリコパ・カントリーフェアというお祭りに初めて出品した。ここでコープランドは事業化のための後援者を求めたが、地元では理解者を得ることはできなかったようである。そこで東部に出て後援者を得て、1887年にはニュージャージー州カンデンにノースロップ製造会社を設立している。

 この時コープランドはすでに2輪車に見切をつけ3輪車の製作に進んでおり、新会社設立の3ヵ月後には「フェートン・モトサイクル」(写真15)という2座の蒸気エンジン付3輪車を完成させた。フェートン・モトサイクルは火入れ後5分で走行を始め、時速16km/hで走行したといわれ、約200台が製造されたと伝えられている。コープランドの蒸気オーディナリも複数台製作されたが、現存は確認されていない。
 コープランドは1888年には蒸気エンジンを使用したタンデムの2輪「セーフティ・サイクル」、また電気自動車の製作も試みていたが、いずれも成功することなく、資金不足からすべての研究をあきらめ、カリフォルニアで引退生活を送り、その生涯を閉じた。

 1887/1888年ドディオンブートン蒸気トライシクル(仏)

 1890年代半ばに3輪自転車にクリップ可能な小型ガソリンエンジンを完成させて欧州に多くのオートバイメーカーを発生させ、オートバイ産業の露払いを行なったといえるのが、フランスのド・ディオン・ブートン社である。ド・ディオン・ブートン社は、その歴史的な小型ガソリンエンジンにたどり着く前、いわば習作期にあたる時期に小型蒸気エンジンを搭載した3輪車を積極的に開発していた。多くのレースに出走して好結果を残したその記録からして、ド・ディオン・ブートンが製作した小型蒸気エンジンの性能は、当時の最高水準に到達していたと思われる。

 (写真16)と(写真17)はその習作期の試作車だが、ド・ディオン・ブートンはこれらの蒸気エンジンの開発を通してその限界を知り、いち早く蒸気機関に見切りをつける。そしてドイツで発明されたばかりのガソリン機関に乗り換えることで成功をつかんだ。オートバイ史の上で蒸気機関に引導を渡す役を果たしたのも、ド・ディオン・ブートンだったのである。


 1895/1896年ダリフォール蒸気オートバイ(仏)

 ド・ディオン・ブートンがガソリン車の開発を進めていたころ、同じフランスでまだ蒸気機関の2輪車への搭載に挑んでいたのがダリフォールであった。
 1895年に製作された(写真18)は、当時の自転車様式の変遷にともない、空気入りタイヤの付く安全型自転車がベースになっている。単気筒のダブルアクティングエンジンは後輪の右側に配置され、ローパー同様にオーバーハングクランクで後輪を直接駆動していた。弁装置はスライドバルブ式で、コンロッドとクランク部に全閉式のカバーが付いている。後輪のマッドガードが水タンクを兼ねていた点も進歩的ではあった。
 (写真19)は今もイギリスで保存されている、1896年のロンドン−ブライトン間の赤旗令解放記念走行会に参加したダリフォールである。(写真18)の絵によく似た形状だが、スクエアフレームの間に置かれた箱状のタンクの中に粒状のコークスを入れ、これを少しづつボイラーに落として焚いていたようだ。後輪のマッドガード兼用のタンクには20Pもの水が入り、水はプランジャーポンプによりボイラーへ供給される。ボイラーに入る水量をワイヤー駆動のバルブでコントロールして、加減速を行なっていた。
 フロントフォークに進歩的な緩衝装置が見られるが、これは後年になってから取付けられたものと思われる。

 
1.5.4蒸気エンジンの限界

 以上のようにオートバイ史に幕開けをもたらした蒸気機関は、自転車の発達課程に合せて、ベロシペードからトライシクル、そしてオーディナリから安全型にいたるまでの自転車に夫々搭載が試みられていた。その4半世紀のあいだに小型蒸気エンジンはより効率の高い、精巧なものに発展していたこともうかがえよう。
 しかし2輪車で携行できるボイラー用燃料の量的な限界、さらに消費する水の補給の問題から、蒸気によるこの方式は明らかにオートバイ向きではなく、どれも成功を納めるだけの性能を発揮することはできなかった。1880年代後半に出現するガソリン機関によってこれら蒸気エンジンによる試みは一掃される。そして小型ガソリンエンジンの完成後にオートバイ産業が芽生え、量産が始まっていくのである。
 その歴史の流れに食い下がるかのように、蒸気エンジン車の試作は、今世紀の始めまで継続されている。1910年代になっても蒸気エンジン付きオートバイはわずかに製作されていた。自動車史においても今世紀初頭までは、蒸気、電気、ガソリンの3種の動力の可能性が追及され、この選択が真剣に問われていた。その一方でオートバイは、自動車よりも一歩早くその結論に到達していたことになる。
 自転車が2本の足の筋力を必要としなくなり、馬車が馬なしで走るようになる過程において、蒸気機関が果たした役割は少なくなかってのである。



文献1'The Motor Museum' The Motor 1912
文献2'Motor Cycles History and Development'C.F.Caunter 1955
文献3'Treasury of Early American Automobiles' Floyd Cilymer 1970
文献4'Treasury of Motorcycles of the World' Floyd Cilymer 1971
文献5'Guinness Book of Motorcycle' L.J.K.Setright 1979
文献6'Pierre Michaux and His Sons' Jean Althuser 1986
文献7'La Prehistorie De La Moto' Claude Reynaud 1989
文献8'La Moto En France 1894-1914' Bourdache 1989


●写真解説
写真1Title Photo
 
写真2:1827年イギリスの漫画家が想像で描いた蒸気3輪車。
 
写真3:ミショー工場で製作したベロシペードと、エルネスト・ミショー(1842-1882)。ピエール・ミショー(1813-1883)の長男エルネストは、ペローよりはるかに大型の蒸気エンジン車を開発していた。1870年には自製の蒸気エンジン付4輪トラクターにより、パリ-ルーエン間126km/hを平均速度18km/hで走破している。
 
写真4:現存するペローの蒸気ベロシペード。1869年製作。ロベール・グランセーヌ・コレクション(仏)収蔵。
 
写真5:ペローが1871年に申請した特許の図面。1868年に申請した最初の特許に対する改良点が詳述されている。
 
写真6:1878年にペローが製作した3輪の蒸気ベロシペード。重い蒸気エンジンを支えるためにミショーのベロシペードを3輪化したもの。これも単気筒だが、シリンダーの配置を逆にして前輪駆動としている。右下はマルチチューブボイラーの構造図。
   
写真7写真8:現存するローパー製作の蒸気ベロシペード。1869年製作と伝えられている。スミソニアン博物館収蔵。
 
写真9:1866年にはアメリカでもベロシペードの特許が申請されていた。この記録では、ミショーの直後に同様のベロシペードをパリで製作したピエール・ラールマンの発明とされている。
 
写真10:1896年6月2日付ボストンデイリーグローブ誌に掲載された、スチームバギー(4輪)とスチームベロシペード(2輪)公開の広告。入場料25セントで見せ物に使われていたことがわかる。下の絵に描かれた2輪はローパー製作のものに酷似しており、恐らくローパーの蒸気ベロシペードと思われる。推定製作年である1869年から数えると、27年経ってもこの形状のまま興業を続けていたことになる。絵は馬との競走を表わしたものであろう。「世界唯一の蒸気ベロシペード。機械の完全なる勝利を宣言する。いかなる坂も登り切り、世界中のどんな馬よりも速い」と宣伝している。
 
写真11:1881年イギリスで製作されたパーキンス-ベートマン蒸気トライシクル。
 
写真12:パーキンス-ベートマン3輪車のベースとなったチェイルスモア(英)製トライシクル。
 
写真13:1885年H・B・スミス機械会社製作「スター」オーディナリ
 
写真14:1884年コープランド製作蒸気オーディナリ。
 
写真15:1887年コープランド製作蒸気3輪「フェートン・モトサイクル」。
 
写真16:ド・ディオン・ブートンと彼の蒸気3輪車。1887年製作。
 
写真17:1888年ドディオンブートン蒸気3輪車。
 
写真18:1895年ダリフォール(仏)蒸気エンジン付安全型自転車。
 
写真19:1896年ダリフォール(仏)蒸気エンジン付安全型自転車。ビューリュー・ナショナル・モーター博物館(英)収蔵。



●脚注
 
1)カール・フォン・ドライス男爵・ドイツ人農業技師、発明家(1785-1851)。
 
2)シルベスター・ハワード・ローパー・ただしステファン・ローパーとの別名説もある。
 
3)ローパーの4輪車・この4輪車はヘンリーフォード博物館に収蔵されている。
 
4)赤旗令・赤旗令とは1861年と1865年にイギリスで発布された、馬なしで走る機械付き車輌に強い制限を与えるための法律であった。これらの乗り物の最高速度は4mph(6.4km/h)、市街地ではなんと2mph(3.2km/h)に定められ、さらに安全確保のために3名の乗務員を配し、うち1名は車の6ヤード前方を赤旗(夜間は赤ランプ)を振って通行人に注意を促しながら歩くという厳しい規制だった。また馬を驚かせないために、馬と遭遇した場合は必ず停止し、警笛も鳴らしてはいけないという徹底ぶりであった。特にタイヤ幅を4インチ(10cm)と定めたため、イギリスでは自動自転車や自動3輪車の開発がフランスやドイツに大きく遅れをとる結果となる。赤旗令は1878年に一部修正されるが、完全に廃止となるには1896年まで35年もの年月を要した。



Title Photo
(写真1)
:1818年にフランスの時事漫画家が描いた蒸気エンジン付ヴェロシペードの「想像画」。



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