日本自動車百年史 第1章 前史

第4節 国産自転車の始まり(後編)


1.4.1二輪自転車はいつ渡来したか?
1.4.2貸自転車業の流行と和製2輪自転車の発生
1.4.3自転車専門工場の出現
1.4.4自転車の量産開始
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1.4.1二輪自転車はいつ渡来したか?

 現在の我々の常識からすれば、自転車といえば、まず2つの車輪をもつ「2輪車」が連想されよう。だがペダルを踏むことによって走行する乗り物としては、3つの車輪を持つ子供用の3輪車から、複数の乗員を運ぶために3つ以上の車輪をもつ変則的なものまでが自転車の類型のうちに含まれる。いまから150年前、19世紀半ばの自転車発達期には、2輪の自転車よりも、むしろこの3輪や4輪の自転車の開発のほうが盛んであった。
 ただし2つの車輪だけでバランスをとりながら走行する2輪自転車と、静止状態でも決して転倒しない3輪車とでは、その操縦法において大きな違いがあろう。子供が自転車の乗り方を学ぶ様子を観察すると分かるが、2輪車の走行を習得するには、誰しも多少のプラクティスを必要とされる。ところがひとたび要領を得てしまえば、体が自然にバランスを憶え、子供は意外にあっけなく走り回ってしまうものだ。そして2輪自転車と3輪自転車の違いについても、その時点からは、あまり気にならなくなってしまうようだ。
 2輪でバランスをとりながら走ることが最大の特徴といえる自転車やオートバイの歴史の、とくに19世紀の黎明期を振り返る場合、我々は、「自分がまだ自転車が乗れなかったとしたら...」と想像すると当時の様子を理解し易い。なぜなら明治時代に初めて2輪の自転車に跨がった人も、また自転車の開発や製作に携わった人々でさえが、これを乗り熟すには、最初は同じプラクティスを経験したからである。しかもそれは子供ではなく、大の大人が、まだ世間に認知されていない珍奇な乗り物に挑戦したものであった。恐らくは現在の我々が考える以上に、大いなる好奇心をもち、勇気を奮い立たせて挑んだに違いない。
 つまり2輪車特有のセルフステア機能を活かすためのキャスター角を前輪に持ち、なおかつペダルを踏むことによって持続する推進力をもった自転車が誕生したとき、人は同時に、「自転車に乗れる」ようになっていたわけである。
 このようなプラクティスを必要とする自転車の開祖は、パリで馬車や乳母車を製作していた鍛治屋ピエール・ミショー(1813〜1884)が、明治維新の7年前にあたる1861(文久元)年に製作したベロシペード(写真2)だったといわれる。ベロシペードから44年も先行して登場した自転車の始祖ドライジーネ(写真1)は、その発明者カール・フォン・ドライス男爵(独1785〜1851)によって「ランニング・マシーン(走行機械)」と名付けられていたように、人間が2本足で走る際の補助的な道具として考案されたものあり、ベロシペードに最大のヒントを与えた先駆ではあるが、足を接地させず2つの車輪と路面の摩擦係数だけで走行することを企図したものではなかった。またドライジーネとベロシペードの中間に生まれたカークパトリック・マクミラン(英)が考案した2輪車(1839年)は、ペダルとリンクで後輪を駆動する推進機能を持ち、足が地面を離れた最初の自転車とも呼ばれるが、これは試作に終止しており、ドライジーネやベロシペードのように量産や商品化に至ることはなかった。したがって世の中に「自転車に乗る」人々が発生し始めるのは、フランスのミショーがベロシペードを製作販売するようになってからということになる。
 現在の2輪自転車の直系の祖先、ベロシペードが日本に初めて渡来した時期については、残念ながらいまだ確証が得られていない。当時としてはあまりに些細な出来事だったために、その日本初見参を正確に記録する人が少なかったのであろう。ただ欧州での自転車史のあゆみや、当時の日欧間の交易や物流の様子から推察して、明治維新の前後には日本に持ち込まれ、外国人居留地の中を走っていたであろうことは想像に難くない。フランスでミショーが製作したベロシペードの特許は、逸早くイギリス、ドイツ、アメリカなどへ伝わり、2、3年のうちには欧米の各地で製作が始まっていた。これらフランス以外で作られたベロシペードのひとつが、ミショーから数年遅れて明治初頭に日本に到着していたとしてもなんら不思議はあるまい。いやむしろこの時点でまだ渡来していないほうが不自然なのである。
 明治3年版の錦絵「流行車侭し」には、「のっきり車」と名付けた2輪自転車が描かれている(写真3)。「のっきり」という名の由来は定かではないが、この絵では前輪駆動のペダルクランクをはっきりと確認することができる。絵師はベロシペードの類を見ていたと考えられる。ただしあまりに雑然とした当時の錦絵文化から史実を拾い上げるのは無理があり、事実誤認を避けるためにも、この絵を2輪自転車輸入の根拠とすることはできない。また(写真4)の東京江戸橋の風景では、鉢巻きをした日本人がベロシペードで走っている姿が正確に描写されているが、惜しいことにこの絵は作者年代ともに不明のままである。洗練された鉄製フレームを持っていることから、あるいは明治10年代以降のミショー型自転車がモデルだったのかもしれない。
 各地に残る公文書には、明治年間のひとけた年代、つまり明治9年までに少しづつ自転車が輸入され、全国の都市部で走行を始めていた様子が正確に記されている。しかしそれらの輸入自転車の中には相当数の3輪車が含まれていると考えられ、このうちにどれだけ純粋なベロシペードが含まれていたかは分からない。その断片的で混沌とした状況から推測しても、ベロシペードの輸入実数は、そう多くなかったのかもしれない。
 明治時代初期の日本人から見れば、自転車は西洋的なたんなる遊戯用の玩具にすぎず、その実用性を認めることは、とうていできなかったであろう。この理由には日本人と西洋人のトランスポーターに対する概念の違いがあげられる。江戸時代の封建的な宿駅制度は、陸上輸送手段を原始的な人肩や馬の背に頼ることを強要し、また街道の整備も厳しく抑制していた。つまり幕末期までの日本では、車輪をもつ乗り物は世間に受入れられ難かったのである。このため日本の道路の成立過程は、明治期に入っても大きく立ち遅れることになる。
 自転車に対する当初の日本人の拒否反応は、明治政府警察の取締令に見ることができる。大阪府では明治3年に、通行人の往来を妨害するものとして、自転車の使用を全面的に禁止していた。また東京府では自転車に対して、営業用のひとり乗り人力車と同額の高額な車税を課していた。これらの自転車が3輪自転車を指すのか、あるいは2輪のベロシペードだったか明らかではないが、いずれにしても当時の状況下では、舶来の自転車を個人で所有する者が増大する由もなかったのである。
 
1.4.2貸自転車業の流行と和製2輪自転車の発生

 ところが明治10年代に入ると、自転車は新たな用途から需要を急増させることになる。まず明治9年に、東京下谷区で3輪自転車を貸し出す店が現れた(明治9年3月5日付「花の都女新聞」に記載)。また明治10年の横浜元町では、石川孫右衛門なる者が、居留地の外国人商人が自転車を乗回しているのを見て自転車の賃貸しを思いつき、1台あたり銀16枚の自転車を16台をまとめて商館へ注文して購入し、貸自転車業を開始した。物見高い人々は文明開花の香りを漂わせて走る曲芸的な乗り物に好奇心を寄せ、1時間25銭という高い賃料にもかかわらず、この貸自転車屋は大いに繁盛した(文献2より)。地方から横浜へ出てきた生糸商人や番頭、出稚までが帰郷の際の土産話にと自転車に挑戦したといわれる。恐らくは自転車に乗れた、乗れないといった話のタネにするためだけでもそんな値打ちがあったのだろう。横浜の貸自転車屋は、在庫の自転車が不足するほどの賑わいをみせ、開業から1年足らずで購入経費を差引いても儲けがあったと伝えられている。この貸自転車屋は東京、大阪にもほぼ同時に広まっていく。
 そしてこの明治10年頃からは、ベロシペードの複製車、つまり国産の2輪自転車が発生していた。当時の貸自転車屋では、輸入自転車のみならず、地元の鍛冶や車大工に作らせた和製の自転車も使用していたといわれ、なおかつそのベロシペードの現物は、いまも全国に10台以上が現存している。写真5〜10はその一部だが、これらはいずれも欧州で製作されたベロシペードよりも若干小柄で、どれも重々しく、まだ軽量化に磨きがかかっていない。つまり製作技術が欧州のものや、さらに米国製のものよりも粗削りで、いかにも当時の我が国の車大工が作ったような、日本的な雰囲気がうかがえる。鉄製フレームに木製車輪をもつシンプルなベロシペードは、明治時代初頭に急発展した人力車製造技術などを以てすれば複製が可能であり、一過性の貸自転車業の用途には事足りたのである。
 明治12年の東京府統計によると、人力車は自家用と営業用合わせて東京府内だけで
28,084台が登録されているのに対し、自転車は1,063台が登録されていた。しかもその自転車はすべて営業用となっているところからして、恐らくは貸自転車屋関係の店で所有していたものと考えられる。この自転車営業の納税者が379名であることから換算すると、1件あたり平均2.8台の自転車を保有していたことになる。また同年の統計に記された廃車と新規車の数量から逆算すると、前年度明治11年の自転車登録台数は584台と推定され、この年には自転車営業の登録がおよそ倍増し、貸自転車業がにわかに興隆していた様子がうかがえる。そしてこれだけ急激な需要を輸入自転車だけで賄っていたとすれば、自転車輸入ブームとして貿易商関係の記録や広告に反映されていてもおかしくはないが、そのような記録はなかなか発見されない。と、すれば明治12年東京府下に登録された1,063台の自転車のうちには、かなりの割合で和製自転車が含まれていたのではないだろうか。
 明治10年代から20年代前半にかけて、京都、名古屋、仙台などの全国各地で、貸自転車屋が繁盛した記録が残っている。明治21年11月6日付の「時事新報」大阪版は、その盛衰ぶりを以下のように伝えている。
 『明治11、12年頃より自転車非常に流行せしが、その後大いに衰微して、一端車輪の跡を断ちたる有様なりしが、去る9月以来またまた流行しはじめたり。他の車と違い税金なきためか、同車を製造して貸車をなすものにわかに増加し、目下2輪車、3輪車とも合わせて2,000輌の貸車を出来たる由にて、これに乗るものは小学校の生徒、丁稚、小僧、職人等の類最も多し』
 この新聞記事で判るのは、大阪では明治20年代に入ると貸自転車業が再び流行し、約2,000台もの和製自転車が製作されていたこと、またその中には3輪自転車も含まれていたようだ。この時期に3輪自転車が使われた理由は、明治維新の頃のように、輸入自転車の型式に3輪車多く含まれていたからではなく、おそらく女性や子供など、2輪自転車を乗り熟すのが無理な者や、入門者のために容易していたものと思われる。欧州でも3輪自転車は、多くの場合女性や子供に使用されていた。
 そして明治期の作と推定される和製の3輪自転車も和製ベロシペードに匹敵するほどの数が現存している(写真8)。これらの3輪車は現在のように子供用の玩具として親が買い与えたものではなく、貸自転車屋で2輪の自転車と併用して使用されていたものだろう。また明治20年代に入ると、次なる自転車の新型であるオーディナリ型が登場し、走行を初めていた。当時の貸自転車屋は、3輪自転車、ベロシペード、オーディナリの順で入門者から熟練者まで、それぞれのクラスの用途に合わせてこれら3種の自転車を揃えた混在期間があったと考えられる。
 現存する和製ベロシペードは無名に近い個々の職人が単品製作していたもので、いずれも製作者や製作年を解明することは非常に難しい。しかし和製とおぼしきベロシペードが欧米製の輸入ベロシペードを凌ぐ台数で今も日本に現存していることが、何よりも史実を雄弁に物語っていよう。つまり渡来したベロシペードは、即座に日本でも複製され、貸自転車屋などの営業用に使われていたのである。ただし明治10年代までは、自転車が一般に受入れられ、実用にせよ遊戯用にせよ個人的な購買層が発生することはなく、そのため人力車のように大量生産されることはなかったと推定できる。
 
1.4.3自転車専門工場の出現

 ベロシペードはイギリスで「ボーンシェイカー」すなわち「骨ゆすり」と名付けられていたように、車体をガタガタと震わせながら走り、その乗り心地が悪かったことから、日本でも「ガタクリ」と呼ばれていた。ウッドスポークの木製車輪付自転車の乗り心地はそれほどハードだったのである。にもかかわらず欧州では、人間が2本足で歩行するよりは多少なりとも速く移動できることが世に認められ、パリのミショー工場では1号車製作から9年後の1870(明治3)年には日産200台ものベロシペードが生産されていた。欧州では、誕生後数年のうちにベロシペードの需要が急増していたことになる。また欧州のベロシペードは、1870(明治3)年頃より、これをさらに速く走らせる目的から、前輪を大径化した「オーディナリ」型と呼ばれる自転車に発展していく。
 このオーデイナリ型も日本では輸入後すぐに複製が行なわれていたようだ。「ダルマ」自転車と呼ばれた和製オーディナリ(写真9〜11)は、和製ベロシペードの倍以上の現存数が確認されている。これらは明治10年代から20年代にかけて製作されたものと思われ、なかには精度や仕上げ技術に目を見張る出来栄えのものまである。ステアリングヘッド部や、前後のフォーククラウン部の溶接については西欧製のものほど洗練されていないが、鍛造のフレームは実に丁寧に製作されており、輸入品と並べてみてもさほど見劣りはしない。特に黒漆塗りの仕上げは、欧米のエナメル塗装以上の品質を現在に伝えている。
 (写真10)の和製ダルマ自転車は、車体に「明治二拾四卯年四月上旬国友作 之 」と銘記されており、もしこれが本物ならば国友鉄砲鍛冶の一派の鍛冶が、1891(明治24)年に製作したものということなる。和製のオーディナリとしては最後の時期のものだが、このように正確な素性を伝えるダルマ自転車は非常に少ない。
 国産のダルマ自転車を欧米で製作されたオーディナリと比較すると、幾つかの特徴的な相違に気付く。まず欧米のオーディナリは、最初期である1870年代前半のものは別として、軽量化の目的からフレームの特にメインチューブ部には文字通り鋼管が使用され、また乗り心地を改良するためにワイヤースポークやソリッドゴムタイヤの車輪へと進化している。ところが和製のダルマ自転車は、現存する数十台のものすべてが、ムクの鍛造フレームとウッドスポークの木製輪に輪金をはめた車輪が使われている。これは明治20年代までの日本にはフレーム用鋼管やワイヤースポークなどの製造技術が無かったことを示していよう。
 ただし高温多湿の気候風土をもつ日本では、繊細なワイヤースポークや鉄リムなどが100年以上も原型を留めることは稀であり、仮に当時それが製作されていたとしてもすでに姿を消している可能性は高いかもしれない。
 ちなみ明治22年の横浜毎日新聞に現れる、横浜の「自転車製造所」の広告(写真11)には、ワイヤースポークに前ブレーキ付の、欧米製のオーディナリ型と見まごうばかりの立派な自転車の絵が添えられている。これは国産自転車工場のものとしては、現在までに発見された最古の新聞広告である。
 横浜の「自転車製造所」とは、横浜高島町と書かれた住所や年代からして、「梶野自転車商店」(写真12)の前身と考えられる。梶野自転車商店の店主梶野仁之助(1856〜1942)とは、明治12年、横浜市蓬來町に我が国最古の自転車専門工場を創業した日本自転車工業の開祖である。明治15年頃には年間50〜60台の自転車を製作していたと伝えられ、明治20年代後期には、その工場で製作した自転車をアメリカとロシアへ輸出したとの記録も残っている。
 また表1の第1〜5回内国勧業博覧会国産自転車出品者リストにみられるように、梶野仁之助は第3回(明治23年)、第4回(明治28年)、第5回(明治36年)と、最多数の3回に渡り自転車を出品していた。梶野が最初に出品した自転車の型式や詳細については不明だが、年代からいって明治23年はまだ、この新聞広告の絵のようなダルマ自転車だった可能性が高い。第4回以降には安全型自転車を出品したと記録されている。
 明治20年代前半までの梶野自転車工場では、多くの部品を米国から購入して組立てていた。梶野は明治29年に出版された日本最古の自転車専門書「自転車術」(文献1)にも広告を掲載しており、それによると3等から1等までの安全型自転車を、55円から110円までの価格で販売し、最高級の「1等安全自転車」には空気入タイヤが装着され、前後車軸、ボトムブラケット及びペダルスピンドルにはボールベアリングが入り、車重約3貫目(12kg)という立派な高級品であった。明治30年代に入ると「金日本号」、「銀日本号」という、国産自転車としては最初期の商標を付けて安全型自転車を販売した。
 その後梶野自転車工場は店主梶野仁之助の引退と後継者の不在により大正年間の初めに衰退し、昭和に継承されることはなくその名が途絶える。しかし宮田製作所の宮田栄助や、横浜の高木喬盛館の高木寿次も当初は梶野自転車工場で学んだといわれ、明治後期の日本自転車業界の発展に寄与した功績ははかり知れない。横浜市住吉町1丁目にあった高木喬盛館は、明治30年代後半からは自転車ばかりでなく自動自転車と自動車も扱い、日本最古の自動自転車専門店である東京神田の山田輪盛館(明治42年創業)の山田光重にも大きな影響を与えた。
 梶野自転車商店に続いて設立された国産自転車工場には、明治20〜21年頃、東京浅草北三筋町に開業した「帝国自転車製造所」があった(「近代日本総合年表」昭和43年岩波書店編より)。帝国自転車製造所ではダルマ自転車を製作していたといわれる。また明治26年には、京都市御幸町通の「自転車製造専門 大島卯之助」なる者が、ソリッドタイヤ付安全型自転車を5等から1等までのレンジで揃え、35円から75円の価格で販売したと記録されている(明治26年8月6日付大阪朝日新聞に広告掲載)。
 このように明治10〜20年代には自転車専門工場が各地で名乗りをあげ、操業を開始していた。だがこれらはまだ欧米から自転車部品を購入し、組立てるだけの段階であり、フレーム用の鋼管からスポーク1本にいたるまでを外国製に頼る、輸入部品アッセンブル工場にすぎなかった。その背景には、明治20年代の欧米では自転車部品工業が形成され、主要な部品が広範に販売され始めていた状況がうかがえよう。
 
1.4.4自転車の量産開始

 明治初期の鍛冶や車大工が在来技術を応用して製作した和製ベロシペードを観察すると分かるように、日本では自転車渡来の初期段階から、ただ完成車を輸入するだけではなく、可能な限り模倣して自製しようとする活発な動きがうかがえる。明治20年代までの日本の自転車商とは、当時輸入機械や雑貨を販売していた商館や代理店のような輸入商ではんく、むしろ地元の職工の手により倣製された和製自転車を扱う販売店が多かったのではないだろうか。輸入自転車が人気を呼び、自転車輸入商がハバを効かせるようになるのは、およそ日清戦争(1894〜1895)後のことである。
 この時期に自転車製造を開始したのが、すでに何度も先述した東京本所区の宮田製銃所である。宮田製銃所を時流に合わせて転身させ、明治末期までに日本最大の自転車工場に育てた二代宮田栄助は、明治26年にその1号車である空気入タイヤ付安全型自転車(写真13)を完成させた。同年の9月7日付東京日々新聞には、東京銀座の大倉組銃砲店が宮田製自転車を販売した広告(写真14)が掲載されている。この1号車はハンバー(英)製のスクェアフレーム安全型(写真15)によく似ている。
 自転車雑誌「輪友」の明治35年4月号に掲載された宮田栄助の談話によると、明治35年の時点でもまだ宮田工場では、猟銃の銃身製作用の繰り抜き旋盤を応用して自転車フレーム用パイプを製作していた。米国製の瓦斯管(合わせ鋼管)を購入して使用するよりも、1本ずつ中ぐりの鋼管を作っていったほうが安上がりだったからである。またドライブチェインは、クリーブランド(米)製のものを真似て宮田工場内で苦労しながら自製しており、当時はまだ国産のチェインも出回っていなかったことがうかがえる。明治35年の宮田工場で輸入品に頼らざるを得なかったのは、ボールベアリング、リム、スポークと、タイヤの4品だけだが、これらは目下研究中であり、タイヤを除く3品については、そのうち自製できる目途が立ったとしている。タイヤは東京府下南葛飾郡の東亜護謨会社が研究しており、その完成を待ってやがては全て国産部品で組んだ自転車を完成させたいと、その抱負語っている。
 つまり宮田工場では、輸入部品に頼らずほとんどの部品を自工場で製作してまで、国産自転車を完成させようとしていた。そのために最新の工作機械や動力機関を揃え、量産可能な近代的工場を目指す努力を重ねていた。この時期の蓄積が、明治39年には計画通りタイヤを除く全ての部品の自社製作を実現させ、やがて宮田製作所を大きな成功に導くことになる。だが宮田が名実ともに世に認められるようになるには、さらに10年以上の年月を要していた。明治後期の日本の自転車界では、すでに輸入品信奉、国産蔑視の風潮が芽生えていたのである。
 明治30年代に入ると自転車は、当時の名士やハイカラな紳士が愛好する趣味性の高い嗜好品として普及し始めた。全国の都市部では洗練された自転車倶楽部が数多く組織され、競走会や遠乗り会が大々的に催され、その自転車文化は日本の自転車史上ほかに例をみない黄金時代を迎える。欧米の一流自転車メーカーの代理店となった自転車輸入商はこの時期に富を成し、激しい宣伝活動を繰り広げた。自転車界におけるこの文化的な隆盛が、やがて輸入が始まるオートバイや自動車をめぐる趣味活動に与えた影響は計り知れない。
 明治30年代、輸入自転車がもてはやされたころ、国産自転車は不当なまでに軽んじられていた。この時期は宮田工場から誕生した旭号を筆頭とする国産自転車にとって、最大のの受難期だったといえよう。どんなに品質の良い国産自転車が登場しても、国産というだけでそれには粗悪品の烙印が押されていた。国産自転車は必ずフロントフォークが折れるとか、国産車が欧米の自転車の品質に追いつくことは決してあり得ない、といった巷説がまかり通っていたのである。
 国産自転車工業はベロシペードが初めて渡来してから30年余りで、何とか部品工業を発生させる段階に到達していた。明治初期から中期にかけての国産自転車の成長には、目覚ましいものがあったのである。19世紀後半の半世紀に日本が遂げた長足の進歩は、世界史の上でも稀にみる加速度で展開したが、これは明治期の自転車工業の興隆にも反映されている。この時期に萌芽した機械工業が、後に渡来するオートバイや自動車を模倣するため基盤となっていくのである。



文献1「自転車術」渡辺修二郎 少年園発行(明治29年)
文献2「横浜もののはじめ」横浜郷土叢書 横浜市図書館発行(昭和36年)
文献3「自転車の一世紀」(財)自転車産業振興協会編集発行(昭和48年)
文献4「自転車発展の途をたどる」高木六弥
文献5「梶野仁之助」大津幸雄 日本自転車史研究会機関誌「自転車」No9〜12号連載


●写真解説
写真1:ドライジーネ(1817年)。V字型の前輪フォークの後方(運転者側)にステアリングヘッドがあり、これを軸としてハンドルを転回させ前輪を操柁する。キャスター角は付いていない。ハンドルのすぐ後ろには肱掛けがあり、運転者は地面を蹴り、肱掛けを前に推しだすようにして走行した。フレームも木製である。
 
写真2:ベロシペード(1861年)。初めてペダルクランクが付き持続する推進力を持つ。フレームは鍛鉄製だが、車輪はまだ木製である。わずかにキャスター角が付いているのが判る。歩くよりは速く走行するようになり、後輪にブレーキが付いた。
 
写真3:錦絵明治3年版「流行車侭し(部分)」に描かれた「のっきり車」。(文献3より)
 
写真4:東京江戸橋の風景絵「東京府下自慢競(部分)」(作者年代不祥)に描かれたベロシペード。このように完全なベロシペードが描写された絵は鮮少。(American Bicyclist and Motorcyclist 100th Anniversary Issue,1981より)
 
写真5:ベロシペードにヒントを得て作った和製自転車と思われる(製作年不祥)。フロントフォーク部分以外は原始的な木製フレームを使用している。日本歴史資料館(京都)所蔵。(写真提供自転車文化センター)
 
写真6:和製(推定)鉄フレーム+木輪のベロシペード(製作年不祥)。前輪に泥よけが付き、ステーに雲型の意匠がみられる。(財)明治村(愛知県犬山市)所蔵。(写真提供自転車文化センター)
 
写真7:和製(推定)ベロシペード(製作年不祥)。和製とおぼしきベロシペードには、この様にステアリングヘッド部をU字クランプとしたフレームレイアウトのものが多い。鋼管を使うより製作が簡単だったからであろう。江戸東京博物館(東京、平成5年会館予定)所蔵。
 
写真8:和製(推定)3輪自転車(製作年不祥)。江戸東京博物館所蔵。
 
写真9:和製ダルマ自転車(製作年不祥)。すべて黒漆塗りで、前輪径は3尺2寸。これも泥よけが付いており、後年の国産オートバイや自動車にみられる日本的な特徴を連想させて面白い。ステーは唐草模様ふうの意匠となっている。高橋勇(大阪)所蔵。(写真提供自転車文化センター)
 
写真10:1894(明治24)年国友作ダルマ自転車。江戸東京博物館所蔵。
 
写真11:明治22年2月1日及び3日付横浜毎日新聞に掲載された、「自転車製造所」の広告。住所や年代から考えて、恐らく「梶野自転車製造所」の広告であろう。(資料発見者須賀繁男)
 
写真13:1893(明治26)年製作と伝えられる宮田製銃所製安全型自転車。
 
写真14:明治26年9月7日付東京日々新聞に掲載された大倉組銃砲店の広告。英国製輸入安全型自転車(125円〜200円)と一緒に、宮田製の空気入タイヤ付安全型自転車を95円で販売する旨が書かれている。
 
写真15:1890年代初期製作ハンバー(英)製スクェアフレームセーフティ。



別添
表1内国勧業博覧会出品自転車にみる明治期国産自転車の系譜
表2国産自転車部分品別変遷(文献4より転載)



 
Title Photo
(写真12)
:明治41年頃の梶野自転車商店。梶野仁之助が明治10年代終わりに横浜市高島町5丁目10番に新設した店舗兼工場。看板には明治12年創業と書かれている。(写真提供大津幸雄)


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