日本自動車百年史 第2章 明治・二輪編

第9節 吉田眞太郎の自動自転車旅行
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- 2.9.1 グラディエートル号走行試験
2.9.2 多摩川鮎猟遠乗り会
2.9.3 その後の吉田眞太郎
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四輪自動自転車グラディエートル号を上野公園不忍池に持ちこみ、日本初のモーター競走を披露した吉田眞太郎は、この新発明品をマスターすべく休む間もなく走らせ、ついには単独で長距離ツーリングに挑む。これは日本人による、初の自動自転車旅行でもあった。
のちに日本自動車工業の創始者に成長する吉田が、24歳の青年時代に挑んだ、冒険の顛末を振り返ってみよう。
2.9.1 グラディエートル号走行試験
1901(明34)年11月3日に不忍池で開催された双輪倶楽部自転車競走会で初めてその姿を現したグラディエートルは、吉田眞太郎が競走会の直前になって、ロシア公使館の書記官から個人的に譲り受けたものだった。おそらく吉田は、十分な試運転も行なわないまま、ぶっつけ本番に近いかたちで、しかも本邦初のモーター競走という華やかな舞台を用意して、一般に公開したと思われる。
この吉田の勇断の背後には、10代の頃より上流階級の自転車倶楽部の中心に身を置き、日本の自転車界をリードしてきた若き先覚者としての強い自負が、また自転車の次なる発明品として出現した自動自転車にも先鞭をつけようとする、貪欲な意図があったことは想像に難くない。明治の世は、際立った新しもの好きを、ハイカラ人種と呼んでしばしば揶揄したが、吉田のハイカラもここに極まれり、といった感を受けるのが、不忍池競走会での雄姿であった。
ただし吉田の場合は、単に先進国の高価な舶来品を信奉するだけの、富裕階級のハイカラに終始したわけではなかった。吉田は競走会の後も、精力的にグラディエートルを走らせ、この新発明品のテストを繰り返している。以下に、3週連続で強行された試運転の様子を追ってみよう。
【1】12月1日
稲毛海岸への遠乗り
まず不忍池の競走会からひと月が経過した12月1日の日曜日には、エベンハイムと連れ立って、トーマス号トライシクル(3輪)とグラディエートルの2台を走らせ、千葉方面への遠乗りを行なっている。この日の目的地は、9月24日に初めてトーマス号オート・バイ(2輪)を走らせた時と同じ、稲毛海岸、海気館までの片道約40kmのコースであった。
吉田のふたり乗りグラディエートルには、当時自転車の曲乗りで名をはせた山崎建之丞が同乗し、一方のアベンハイムには、この外人の友人が1名、自転車で伴走するかたちとなった。一行は午前8時に京橋の双輪商会を出発し、エンジンの音を響かせながら、初冬の寒風を切って進んでいった。
2台で連れ立って走ってみると、エベンハイムのトーマスは、思うようにスピードが上がらず、なかなか吉田のグラディエートルに追いつくことができない。両車をよく見比べてみると、トーマスのほうはエンジンがひと回り小さい上に、減速比もグラディエートルよりだいぶ高い。吉田のグラディエートルは、平坦路で時速30マイル(48km/h)にも達しようというのに、これでは流石のエベンハイムも、強気で先頭をきって走るどころではなかった。
ところが吉田のグラディエートルのほうにしても、まだ十分に操縦法を理解していたわけではなく、しばしば停車しては、各部を調整するという停頓をくりかえしていた。
一行が稲毛海岸に到着したのは午後1時。およそ5時間かけての苦しい道程であった。結局、この日のデュオツーリングは、9月24日の2輪トーマス号初試走時の成果を上回ることはできなかったのである。吉田とエベンハイムは、海気館で東京湾の霜枯れの景色を楽しんだあと、午後3時、東京への帰路についた。
帰り道では、グラディエートルの調子がさらに悪化し、ついには走行不能となってしまう。結局、吉田は途中の船橋に車輌を残して帰宅せざるを得なかった。
【2】12月8日
羽田への遠乗り
次の日曜日には、双輪倶楽部の自転車遠乗りが催されたが、吉田はここでもグラディエートルを乗り出している。この遠乗り会は年の歳に倶楽部員が集まる、1年最後の納会でもあった。
この日の行程は、麹町区山下町の双輪倶楽部練習場を午前10時にスタートし、品川の大森八景園を経て、羽根田(現在の羽田)の穴守稲荷を詣でるというもの。吉田の乗るグラディエートルは、20数名の自転車が連なる一行の先頭をきって進んでいった。
この遠乗りでもグラディエートルの調子は思わしくなく、満足な結果は得られなかったようだ。こののち吉田は、煩悶に堪えない思いを抱いて、グラディエートルの修理と改良に専念する。
吉田の自筆記録によると、稲毛海岸行以来、グラディエートルの最初の故障原因は「電気発火器」の不良にあったという。電気発火器とは、スパークプラグの事であろう。無論、周囲にも経験者はおらず、
『素人考えで要部に白金を用いて見たら、この障害を取り除くことが出来た』
と記している。点火不良を少しでも補うために、プラグの電極に白金を試用してみたのかもしれない。
もともと発火不良の最大の原因は、燃料のガソリン自体にあったことは明白である。吉田は、『素より最上等、飛び切りの原油で揮発力の強いのを用いたら、こんな手数をしなで済むと思う』と記している。ところがこの時東京では、ガソリンの名を知っている者さえ皆無に等しく、当然ながら、良好な揮発油の入手は非常に困難であった。おまけに季節は厳寒の初冬に入っていた。
『ガソリンが思うように揮発してくれず、肝心要めの瓦斯が十分でない』
ことは、吉田も十分に承知していたのである。
それでもグラディエートルを快調に走らせたい一心の吉田は、
『排気熱を利用して油槽を温め、所要の瓦斯を得ることに気付いた』
ようで、その改造を施している。この2、3年前より、フランスのド・ディオン・ブートンなどは、冬季対策としてサーフェイス・キャブレターのタンク内に排気菅の一部を巡らせ、ガソリンを直接加熱し、気化を助けるという方策をとっていたが(右上図・写真5参照)、吉田も素人細工でこれと同じ、あるいは似たような改造を行なったと思われる。
以上のような急造作業を経て、なんとか走行可能となったグラディエートルを前に、吉田は矢も盾もたまらず、12月半ばの寒気をおして、千葉県成田山までの長距離ツーリングに挑戦する。
【3】12月15日
成田山日帰り長距離試験
成田行きは、羽田への自転車遠乗り会の翌週、12月15日の日曜日に決行された。当時、東京から成田山までは、往復36里、144kmの道程である。
これ以前に吉田は、自転車を駆って、すでに北は青森から、南は長崎までの長旅を経験していた。自転車ツーリングについてはエキスパートの部類に入る愛輪家だったのである。しかし当時の険しい道を、日帰りで144kmも走破することは、高速の乗用馬車ならばともかく、自転車でもなかなか容易なことではない。その強行軍でモーターの力を試し、まず行けるところまで行ってみよう、という決意であった。
この日の長距離ツーリングについては、翌日12月16日付の萬朝報に「自動車1)の遠乗り」と題して右の記事(写真2)が、また吉田自身の談話をまとめた旅行記が、雑誌「輪友」明治35年1月号に「自動車の初旅」として掲載されている。吉田の旅行記を以下に抄録してみよう。多少読みづらい部分もあるが、当時の様子を記す貴重な生の声としてご容赦頂きたい。文中気をつけて頂きたいのは、吉田はグラディエートルを操縦していたわけではなく、操縦を双輪商会の社員に任せ、本人はほとんど前の客座に腰掛けていたこと。またこの一行には、2台の自転車も加わっていた。
●自動車の初旅
『去歳12月15日初めて自動車の旅行をした。
自動車の旅行という旅行は、日本開闢以来これが始めての仕事である。何様見慣れない怪物が走るのだから、馬や牛が驚くばかりでなく、人間までが愕してしまい、猫も杓子も呆気にとられるという始末であった。
小松川の手前で帝国輪友会の豪傑連に会合する約束があったのだが、そこに達する少し手前で、前輪に釘が刺さって、運悪く「パンクチュアー」してしまった。慌てて中袋を取り換え、用意の「ポンプ」を出して空気を入れ、急行、逆井まで走って、待ち受ける人等を探した。
全速力でわずか十分間で走ってしまったが、実際、そんなに早い速力で走ったことは、今の今まで経験したことがない位で、前面の座席に悠然と乗っていられる騒ぎでなく、両手に欄架を握って、まず南無阿彌陀仏を呪えんばかりであった。何しろ気が気でなく、再三運転手に注意して、漸くの思いで逆井の渡し場に着いた。ここで自転車の一行とも遭遇し、ほっと息をした。渡し舟の上で談笑の中に船橋へ着く。自転車に乗る二氏に先達されて、余等の一行は成田街道に向う事になった。
ここから三哩ばかり前進すると、またもや前輪が「パンクチャー」した。下車して空気を入れ出発したが、習志野の原の中央へ差し掛かると、またもや「パンクチャー」を見い出したから、中袋を取り換えて、進行を続けた。ところが先達の二人は委細御構いなしで走ったと見えて、随分早い速力で追い駆けたが、中々追付けなかった。一寸姿を認めた事もあって、もう少しだと思うと、間の悪い時には仕方のないもので、昇り坂に砂利敷込という寸法だから、坂の八分通りというところで下車することとなった。
手賀沼を見ながら「ホウカイ」坂という、名からして妙な坂に差しかかって、またもや下車させられた。佐倉もほど近いと聞いたから、暫く憩んで、そこの茶屋の写真を撮ってみた。それから佐倉の口許にある、名は忘れたが、強い急な坂に着いたが、成程聞く通りの急坂で、先ず東京の江戸見坂の長いのであろう。可笑しい話だが、通り掛かった学校の生徒に手伝って貰って、此坂を漸くの思いで押し上げて、駄賃に蜜柑を振る舞って謝したのも一興であった。町外れの、自動鉄道の如き坂を面白く上下して、坂の途中の茶屋で先達の両氏に会って、それぞれ支度を整えて、成田に着いたのは午後の一時であった。
斎戒沐浴という寸法で参拝をして、祈祷一番、輪界の前途の隆盛なる事や、輪友諸君の幸福を御願い申した。
食事も済んで、二時半に出立して、帰路に就いた。一里余り来ると、発火器が破損したから新しいものと取り換えて、先達諸氏の後を追った。復路も無事に、市川の渡し場へ、自転車に十五分遅れて着いた位である
行きも帰りも、馬車の馬には度々苦しめられて、非常に困った。なぜか馬は自動車を見ると痛く驚くもので、車の後部を自動車に差し向けて回転して逃げ出すものだから、随分危険な事もあった。ある時は後部の土除に触れた事もあって、この時は冷やりとした。
市川の渡し場では、日は全く没して、中川の水面に「ラッパ」の音を反響せしめながら、波の音静かに渡る愉快さは譬え難かった。少女の如き驚鈴の響きは更に余等の疲れた精神を爽かならしめた。彼岸に達して始めてこの「ベル」の主人公を知るを得たが、夫れは我々の一行を出迎えたる某輪客で、相見て無事を祝された。
一行、輪を連ねて帰途についたが、夜間の行進は一層興味を深らしめた。瓦斯ランプの光は瀾々として田夫野人を驚かしめ、無事到着したのは、六時を過ぐる三十分であった。この行(復路)、十八里(72km)を坂の上下、渡し場等の面倒を入れて、四時間で走ったとすれば、満足なる結果を得たのである。』(句読点括弧内筆者)
こうして吉田ら一行は、午前7時に京橋を出発して、成田往復144kmを11時間半かけて走破し、午後6時半に無事帰着した。吉田は旅行のあと、試運転の成果として、次の3点を書き残している。
- 第一 「ガソリン」は割合に少量を要し、三十八里許りに5升余りを費やした。
- 第二 冷気式(空冷エンジン)は簡便なる点に利益はあるが、長距離の乗用には冷水式(水冷)でなければ発火器の寿命を短縮する恐れがある。
- 第三 日本の様な山国では、登坂力の充分ある車を要する。
以上のように、吉田は一見無謀とも思える急行を、懸命なメンテナンスの果てに、独り愉快に楽しんでいた。度重なるパンク修理や、エンジン音に驚いた馬車の暴走、またガス燈を灯しての夜間走行などは、同時代の欧米の先駆的モーターバイシクリストの旅行記とも比肩できよう。これがわずか3ヵ月前に始めて自動自転車に遭遇した日本人とは思えないほどの練達ぶりである。
吉田のたくましい行動力の背景には、モーターに対する強い好奇心と、自転車界の先達として培った気高い冒険心があった。このグラディエートル号遠乗り試験3連発を経て、吉田はモーターの将来性をさらに確信し、日本モーター界の開拓者としての道を独走し始める。
2.9.2 多摩川鮎猟遠乗り会
ところで成田山詣でが終了してみると、吉田の愛車グラディエートルは各所に破損をきたし、1ヵ月後の翌年1月下旬には、本格的な修理が必要な状態に落ち込んでいた。この回復には、2月上旬から6ヵ月かけての大修理を要した。その修理内容は、おおむね以下のようなもの。
まず点火効率を上げるために、当時最新の米国製自動車を参考にして、サーフェイスキャブレターのレイアウトを変更した。また同時に乾電池とイグニションコイルも、前部客座の下に移動させた。吉田はこの新式気化器を製作するために、銅を素材として精巧な鋳造を試みている。たがこの時点の日本の技術レベルでは、作業は遅々として進まず、結局、完全な工作はできなかったという。ひょっとすると最新のスプレー式気化器を真似て、自製を試みていたのかもしれない。
このとき東京で、エンジンについての貴重な経験を持ち、吉田に助言を与えていたのが、芝浦製作所(田中久重の田中工場の後身、現在の東芝)の技師、小林作太郎(1868-1937)(右・写真5)であった。小林は芝浦製作所を代表する優秀な技師、また発明家でもあったが、自転車界では曲乗り家としても、その余芸が知られていた。
この小林作太郎が何故エンジンについてのノウハウを持ち合せていたかといえば、それは前年の、1901(明34)年3月の出来事にさかのぼる。前節でも少し触れたように、この年の東京には、吉田が購入したロシア公使館のグラディエートルの他に、米国公使館にも米国製3輪車ノックス(写真6)が1台到着していた。これは米国公使館の書記官ファーガソンが、分解状態で米国から輸入したもの。ファーガソンは、いざ輸入はしてみたものの、自分では手に負えず、やむなく芝浦製作所の太田黒重五郎主事に組立を依頼した。当時トップクラスの技術者を揃えていた芝浦製作所の中で、この渡来品に初挑戦する役を与えられたのが小林作太郎だったのである。小林は箱詰めされたノックスを、わずか1日で組み上げ、その日のうちには、ひとりで近所の坂を上下し、テストしていたという。たぶん日本人には無理だろうと、たかをくくっていたファーガソンは、その技術の高さに驚き、小林へ謝状と金時計を贈っている。文献1の「日本最初の自動車組立」と題した一節には、このファーガソンの手紙の写真が掲載されており、その日付は1901年4月8日となっている。したがって小林作太郎がノックスを組立てたのは、明治34年3〜4月頃と推定されよう。
その後も度々ノックスの修理を引き受けていた小林は、かねてから親交のあった吉田に、東京で唯一ともいえる貴重なアドバイスを与えていたのである。
吉田はこの時の改造を、修理というよりも、『速力を増加せんと勉めし』ものだったと記している。この先覚者は早くもチューニングアップを施すほど、スポーティな行動派だったのである。また修理の最終段階では、グラディエートルの車体を深紅に塗り上げ、また前部の客座を草色に仕上げていた。前述のように吉田の双輪商会は、派手な赤いフレームのデイトン号自転車を輸入販売し、自らを紅輪生、あるいは吉田紅輪と名乗るほどに、赤をトレードマークとしていた。
難渋した修理作業が終了すると、吉田は早速、新装なったグラディエートルで、遠乗りを試みる。ちょうど7月13日には、双輪倶楽部の多摩川への自転車遠乗り会が開かれた。これは倶楽部員が初夏の多摩川にくりだして、鮎を漁し、舟遊びに興じるという催しであった。吉田はこの前日にグラディエートルで出発し、多摩川沿岸の登戸(現在の川崎市多摩区登戸)に宿をとり、倶楽部員一行を待ち受けることとした。
この日のグラディエートルの遠乗りは、雑誌「輪友」明治35年8月号に「多摩川鮎漁と自動車の試運転」と題して、吉田の自筆手記が掲載されている。
7月12日の多摩川行きをつづった吉田の手記は、復活したグラディエートルを走らせる喜びに満ちあふれている。
『快走飛燕のごとき自動車は、排気の轟音と、歯車の軌音を残して縦横に走る。その状、勇ましくもまた目覚ましき心地ぞしぬ。況して前方には翌日の猟遊あり、後方には涼風の襲送あり。その愉快は、あたかも流雲に跨がるがごとく。時々車を停めて、これを験しつつ、緑翠彌や増す青山殿(東宮御所)の厳前を過ぎり、新宿に出づれば昨日の雨後、泥濘、凸凹交々到りて疾行を苦しましむ。須臾ここを踏破すれば、ついに甲州街道に入る。路傍の行人手を拍ち、足を鳴らしてその速力に驚呆せざるものなく、なお進めば鄙僻の土老爺老嫗鍬鋤を捨てて送眸これを久うす。(後略)』
こんな具合に悦に入りながら多摩川登戸までの走行を楽しんだ吉田は、その晩から葉舟を出して、投網を打たせ、月明りの中、船上で清涼な鮎を楽しんだ。そして翌日、自転車で到着した倶楽部員を迎えて撮影したのが(写真3)である。これは現在のところ、グラディエートル号を捉えた3枚目の写真であり、その後再び歴史の闇の中に消えたパイオニアマシンの最後の姿でもある。
2.9.3 その後の吉田眞太郎
以上のように、吉田はグラディエートル号によってモータリングの世界に足を踏み入れ、当時としては稀にみるスピードで、新発明の自動自転車をマスターした。
その1年半後の明治37年1月、自転車の商取引のために始めて渡米した吉田は、アメリカで水冷式水平対抗2気筒エンジンを数基購入して持ち帰り、これを使って国産第1号吉田式自動車を製作し、日本初の自動車メーカー、東京自働車製作所を興す。そしてこれ以降は自転車やオートバイの世界から完全に離れ、自動車製作のみに没頭し、明治期の日本自動車工業史上に最大の足跡を印していくのである。
結局のところ、吉田がオートバイ史の分野に関わった期間は、トーマス号やグラディエートル号に遭遇した、わずか2年余りに過ぎなかった。だがこの2年間の吉田は、卓出した行動力を発揮して、この分野に先鞭をつけ、後続する自動自転車界の先駆者達に、強い影響を与えた。吉田に啓発された有力な自転車商達は、双輪商会の吉田に負けじと、競って自動自転車を輸入し始めるのである。
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- 文献1「小林作太郎伝」木村安一
昭和14年 東京芝浦電気M発行
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●写真解説
写真1:吉田眞太郎(1877ー1931)
(丹治礼子氏所蔵)
写真2・12月16日付萬朝報「自動車の遠乗り」
写真3・(Title Photo)
写真4・小林作太郎(1868-1937)
写真5・ド・ディオン・ブートンのサーフェイス・キャブレターの構造。タンク内に排気菅の一部を巡らせ、ガソリンを直接加熱している
写真6・1901(明34)年式米国製3輪車ノックス(Knox)
写真7・明治37年頃の吉田眞太郎とその家族。夫人の恵香子は当時の東京府知事、貴族院議員三浦安の娘
写真8・(下)トヨタ博物館所蔵1899(明32)年式ド・ディオン・ブートン製クォードラィシクル。吉田のグラディエートルもほぼ同一仕様。運転は筆者。
●脚注
1)当時はまだ自動自転車と自動車の区別がつかなかった。詳しくは本編第7節参照。
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Title Photo
(写真3):1902(明35)年7月12日、双輪倶楽部多摩川の鮎漁。中央のグラディエートルのサドルに腰掛けているのが吉田眞太郎
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Co.)1992-1994
- Last Updated 7th July
1995
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