日本自動車百年史 第2章 明治・二輪編

第8節 競走した3台の自動自転車


2.8.1 トーマス号3輪自動自転車
2.8.2 ブルウル兄弟商会
2.8.3 グラディエートル号4輪自動自転車
2.8.4 大日本双輪倶楽部秋季大競走会
2.8.5 日本初のモーター競走

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20世紀劈頭、東京に初めて出現した米国製自動自転車、トーマス号'オート・バイ'は、自転車界の若き精鋭達の手により、即座に長距離試運転が敢行されていた。日本オートバイ史上長い間埋もれていた、この注目すべき1台の自動自転車を走らせた張本人は、横浜の外国商館駐在員アベンハイムと、のちに国産自動車工業の創始者となる吉田眞太郎のふたりであった。
トーマス号は、矢継ぎ早にもう2台の自動自転車を加え、3台で東京の市中を走り回り始める。日本のモーターサイクリングが幕を開けたのである。
まもなく一堂に会する3台の自動自転車は、数千人の観衆の前で競走を行ない、本邦にモーターレースの端緒を開く。この柱石となったのも、同じふたりの先覚者だった。

 
2.8.1 トーマス号3輪自動自転車

 1901(明34)年9月24日に行われた日本初のオートバイ遠乗り試運転を成功させたアベンハイムは、その日横浜へ帰る前、試運転に同行した双輪倶楽部員に以下のような約束を残していた。

『遠からず三輪車も輸入し試験せんと』(雑誌「輪友」明治34年10月号P37)

 これはトーマス号オート・バイに続いて、近く3輪車も輸入し、再び試運転を行うとの、アベンハイム自身による予告だった。出現と同時に片道約40kmの遠乗り試運転を走りきり、その快速ぶりを示した自動自転車の、次なる3輪とはいかなるものか、愛輪家達は興味をつのらせたに違いない。
 問題の3輪車は、予告通り、翌10月までに横浜のアベンハイムのもとへ到着していた。この3輪車は、先着したトーマス・オート・バイ(Auto-Bi)の3輪版といえるもので、モデル名をトーマス・オート・トライ(Auto-Tri)といった。(写真1)のとおり、外観はフランスのド・ディオン・ブートン製トライシクルに酷似している。
 E・R・トーマス・モーター社は、1899(明32)年から生産を開始した米国最古参のオートバイメーカーとして知られる。1901(明34)年型のモデルには、(写真2)のように4種のバリエーションをそろえていた。この絵でわかるように、各モデル名の頭にはすべて「オート」が付き、「バイ」は2輪を、「トライ」は3輪を、「ツー」はふたり乗りを意味した。つまり9月に一足早く到着したのが2輪のオート・バイであり、翌10月に到着したのが、同じトーマス社製の3輪自動自転車、オート・トライだったのである。
 トーマス・オート・トライは、米国で初めて量産された最も完全なド・ディオン・ブートン型トライシクルだったといわれる。フランスのド・ディオン・ブートンを細部まで忠実に模倣し、気化器にも本家ド・ディオン・ブートンと同じサーフェイスキャブレターが使用されていた。ただし斯界の開拓者ド・ディオン・ブートンは、1896(明29)年からすでに同じ型式のトライシクルを販売し、刻々と進化していったのに対し、米国のトーマスでは、3、4年前の、若干時代遅れの複製品を販売していたことになる。なにしろこの時期、西欧のオートバイ開発は、日進月歩で進んでいた。
 オート・トライのエンジンには、2輪版のオート・バイに搭載された21/4馬力よりひと回り大きい、3馬力のエンジンが使われ、車重も約2倍の90kgとなっていた。車体寸法は全長1,670mm、全幅1,020mm、全高990mmと、ド・ディオン・ブートンとほぼ同じ。乾電池点火で、クラッチと変速機はもたず、最高速度は40km/hだった。前輪部のアタッチメントを交換すれば、クォードラィシクル(4輪自動自転車)にコンバートする方式(下図・写真3参照)も、まさに米国版ド・ディオン・ブートンといえる仕様であった。
 さてここで読者は、本編第6節(連載12回)に登場した、神戸の居留地で走ったモーター・トライシクルを想起されたい。同年8月から9月始めにかけて、神戸港のメリケン波止場で試走し、石垣に衝突したという例のトライシクルである。この件については、8月上旬に居留地の外国商館に到着し、その駐在員とおぼしき外国人が運転したこと、またこれが米国製であったという記事(明治34年9月6日付神戸又新日報「自動車初めて神戸に舶来したる」)だけが残されていた。
 前述したように、神戸で走行したトライシクルについて、筆者は、トーマス・オート・トライだった可能性が高いと考える。その理由は以下のとおり。
 まず1901(明34)年当時の米国で、しかも同記事の挿し絵に描かれたような構造をもつトライシクルは、トーマス・オート・トライ以外に量産されていない1)
 またトーマス号を輸入した横浜のブルウル兄弟商会は、神戸の居留地にも支店を構えていた。東京でトーマス号を試運転した外人アベンハイムとは、ブルウル兄弟商会横浜支店の駐在員だが、神戸支店にも別の外国人が1名駐在した記録が残っている。そしてブルウル兄弟商会が東京で最初に出した前出の新聞広告(明治34年9月17日付時事新報)には、『今般2台荷着し、横浜神戸両店とも競走試験をなし、大いに賛賞を得たり』とあり、続いて登場した紹介記事(同年9月18日付東京朝日新聞)には、『米国製トーマス式自動車は、横浜と神戸のブルウル兄弟商会に1台ずつ合計2台あるのみ』とも書かれていた。
 したがってブルウル兄弟商会が試験的に輸入した2台のトーマス号は、1台が2輪、もう1台は3輪型だったのではなかろうか。そして横浜と神戸の両支店に1台ずつ荷下ろしされ、双方で試乗と将来の販売予測が行われたのち、やがて東京での販路が開き、神戸に到着していた3輪型は再び船積みされ、横浜に送られた、と考えられるのである。それに東京での2台のトーマス号は、後にしばしば衆目を浴び、新聞記事にも登場することになるが、神戸では前掲の記事が登場したあと、自動車に関する話は、ぱたりと影を潜めてしまう。神戸の地方新聞をよく調べてみたが、自動自転車や自動車に関する記事が再び登場するのは半年以上経ってからのことである。
 以上のような背景を考えれば、同年8月の神戸港に、なぜ忽然と米国製トライシクルが現われたか、またアベンハイムよって東京に持ち込まれた2台のトーマス号公開の時差についても理解できる。
 
2.8.2 ブルウル兄弟商会

 アベンハイムが駐在員の任務についていたブルウル兄弟商会とは、パリに本社をかまえ、ニューヨークと日本に支店をおく貿易商であった。この商会は明治20年代から日本で営業を始め、明治36年までの間、横浜と神戸で活動した記録が残っている。当時の駐在員名簿(文献2)には、以下の3名のアベンハイムの名前が並んでいる。

F・B・アベンハイム(F.Berthold Abenheim)
R・アベンハイム(Richard Abenheim)
R・E・アベンハイム(R.E.Abenheim)

 そして1904(明37)年には、横浜神戸の両支店ともに社名をアベンハイム兄弟商会と改称し、1906(明39)年頃まで商取引を行っていた。おそらく途中でパリ本社との関係が途絶え、アベンハイム兄弟は日本の支店を譲り受け、独立したと考えられよう。やがてアベンハイム兄弟商会も閉鎖されると、横浜にいたアベンハイムは米国に帰国し、その後の消息が途絶えてしまう(文献3)。だが上記3名のうち、横浜に数年間在住したアベンハイムこそが、トーマス号を試走させ、やがて東京銀座に日本初の自動車商、モーター商会を開設させた張本人であり、日本自動車史の露払いをも行った、重要人物だったのである。
 
2.8.3 グラディエートル号4輪自動自転車

 トーマス号試運転によって自動自転車に目覚めた吉田眞太郎は、エベンハイムからトーマス号オート・バイの委託販売を受諾し、双輪商会で希望者に供覧していた。だが吉田はそれだけでは満足できず、さらに自動自転車を研究しようと自ら行動を開始する。そして東京でもう1台の自動自転車を発見し、即座に購入していた。
 もう1台の自動自転車は、ロシア公使館2)に到着していた。この年、ロシア公使館員が個人的にフランスから輸入していたクォードラィシクルで、車名をグラディエートルといった。吉田はこのグラディエートルを、同年10月に公使館員から500円で譲り受けている。
 吉田が2輪のトーマスや、続いて到着した3輪のトーマスではなく、このフランス製クォードラィシクルに食指を動かした理由は、容易に想像できる。グラディエートルは、ふたり乗りで、しかも4輪であった。つまり欧米で流行しつつあると伝えられる、自動車に近い乗り物だったのである。自転車についてはその道を極めた吉田だったが、トーマス号を体験してからというもの、自転車の次なる発明品である自動自転車や、さらに来るべき自動車へと急速に好奇心を燃やし、その高い将来性を確信するまでになっていた。この間、わずか1ヵ月の出来事である。23才の若き開拓者の早熟ぶりがうかがえよう。世間ではまだモーター付きの乗り物に対してほとんど知識がなく、これを紹介した進歩的な新聞でさえ、無益で危険なものと、否定的な批判記事を書いた時期であった。
 吉田眞太郎が購入したグラディエートルの、フランス本国で発行されたカタログの絵を(写真4)に掲げる。グラディエートル社は、1890年代より、高級自転車メーカーとして知られていた。ド・ディオン・ブートンがモータートライシクルを製作するようになると、グラディエートルもそのエンジンや特許を購入し、自動自転車の分野に進んだ。これは同時期のフランスの有力自転車メーカー、クレメン、グリフォン、プジョーらと同じ経路を辿ったものであり、上記各社はやがて自動車生産にも進出する。このパターンは、当時の仏、独、英、伊の自転車メーカーに一律におこった動きであり、米国のトーマスでさえ、1903年から本格的な自動車生産に参入した。
 1901年のグラディエートルのカタログは、ド・ディオン・ブートンが歩んだ道を踏襲し、2輪、3輪、4輪の自動自転車、そして自動車までをそのレンジに並べていた。このうち吉田が購入したのは、後掲する写真の形状などから判断して、おそらく31/2馬力の空冷モデルだったと考えられる。無論、前輪部を交換すれば、トライシクルに戻せるもので、その仕様は、客座付きの前輪部を除いて、トーマス・オート・トライとほとんど変わらない。ただこの時期の仏車は、米車と比べて別格の仕上りを持ち、耐久性においても一日の長があった。
 後年の吉田の回想によると、この時東京には、上記ロシア公使館のグラディエートルのほかに、さらにもう1台のモーターが到着していたという。これはアメリカ公使館の書記官が分解して日本に持ち込んだ、米国製のふたり乗り3輪車、ノックスであった。明治34年の3月には東京に到着していた。ノックスは自転車式ペダルのない、並列座席の乗用車であり、自動自転車というよりは自動車の範疇に入る。したがってここで詳述は避けるが、とにかくこの時点で、東京で動いていたエンジン付きの車は、2台のトーマス号のほかに、このグラディエートルとノックスがあったのみである。4輪自動車としては、本編第5節で述べたように、明治33年8月に皇太子(後の大正天皇)に献上された米国製電気自動車が1台、また明治34年3月には、アベンハイムにより米国製蒸気自動車ナイアガラ1台が到着していた。しかし献納車のほうは東宮御所の中で深く眠る運命となり、ナイアガラもまだ横浜の居留地を本拠として動いていた。
 吉田はトーマス号を試乗したあと、ロシア公使館のグラディエートルと、アメリカ公使館のノックスの両車を観察し、即座にグラディエートルの購入を決断したと考えられる。
 この時期は、日露戦争(1904〜1905)を目前に控え、ロシアとの関係に暗雲が重く立ちこめていた。その最中、ロシア公使館員から直接グラディエートルを購入した吉田は、相当な社交家でもあったのである。
 
2.8.4 大日本双輪倶楽部秋季大競走会

 以上のとおり、トーマス号初試走の翌10月、東京には、2台のトーマス号と、吉田眞太郎のグラディエートル、合計3台の自動自転車が動き始めていた。いやむしろ、居留地などの特殊地域を除けば、東京というより、わが国で最初に走りだした自動自転車の一団だったといえよう。
 さてこの3台の自動自転車は、翌11月、そろって数千人の観衆の前に出現する。
 吉田眞太郎の双輪商会を中心に結成された自転車倶楽部、大日本双輪倶楽部は、その最大の活動の場として、全国から一流の選手を集め、春秋の2回、上野公園で大規模な自転車競走会を開催していた。
 双輪倶楽部が最初に自転車競走会を開いたのは、まだ内地雑居が始まる以前の、明治31年の秋のこと。これは日本で組織だって行われた最初の自転車競走会だったといわれる。そのスタイルは横浜居留地のクリケット倶楽部の外人達が興じていた自転車競走を真似て始まった。吉田ら資産家の2世達は、内地雑居の以前より横浜の居留地に出入りし、欧米人に混ざって自転車競走に参加していたのである。そこで外人対日本人の競走が話題を呼び、これが次第に盛り上がっていく。ちなみに日本人で最初に外人を破り、名を上げたのは、吉田眞太郎の5才年下の実弟、鶴田勝三であった。時代の先端をいく自転車競走は新聞にも取り上げられ、やがて上野公園の不忍池を周回するコース3)に外人選手を招待して開催されたのが、第1回の双輪倶楽部大競走会だったのである。
 明治31年11月6日に行われた第1回競走会から翌春の第2回までは、まだ観客も数百人程度の規模だったが、3回目の明治32年秋からは、日本人のスター選手を一目見ようと多くの観衆が集るようになり、また東京の優勝選手と関西の最強選手の雌雄決戦といった趣向も組まれ、この競走会は大いに隆盛する。観客数はうなぎ登りに増え、春秋の2回ずつ開かれた不忍池の競走会は、明治34年秋の第7回目には、とうとう何千人もの人出を呼ぶ記録的な大会となったのである4)
 この明治34年11月3日(日)の秋季大競走会は、好天に恵まれ、さらに天長節の祝日と酉の市も重なり、上野公園は早朝より非常な賑わいをみせていた。不忍池の池畔1周1マイル(1.6km)のコースを左回りに走る競技は、1マイルのスプリントから、10マイル競走、さらに子供競走といったものまで、10数番が組まれ、全日に渡って熱戦が繰り広げられた。
 これら競技の合い間をぬって行われたのが、本邦初の自動自転車競走であった。これはあくまでも余興として組まれたもので、当日の観客は全く予備知識のないまま、3台の自動自転車がエンジンの音を立てて疾走する様子を目撃した。この歴史的な光景に立ち合った数千の観衆のほぼ全員は、まだ自動自転車の存在すら知らず、もちろん目にするのも始めてだったであろう。おそらくはポカンと口を開けている間に終わってしまったに違いない。同じ余興でも、むしろ次に行われた自転車の曲乗りのほうが印象に残ったかもしれない。結局この日の自動自転車競走が人々に記憶され、後世に語り継がれることもないまま、今日まで埋もれてしまう結果となったのである。
 
2.8.5 日本初のモーター競走

 3台の自動自転車のうち、まずトーマス・オート・バイは、須藤貞三郎なる男5)が乗り、トーマス・オート・トライはアベンハイムが乗車し、グラディエートルは吉田眞太郎自身が操縦した。そして不忍池を周回する楕円コースを、スタンディングスタートから2周して、スピードを競った。
 この時競走した3台については、幸いにもその着順のみならず、タイムまで計測されていた。詳細を伝えたのは、明治34年11月4日付の時事新報および萬朝報。また雑誌「輪友」明治34年12月号も、同じ新聞記事を再録した。したがってこの記録は、信頼に価するものと思われる。以下は萬朝報からの抜粋である。

『此間に自動双輪車、自動車の競走ありしが須藤貞三郎の乗りたるトーマス式二輪車一マイル二分四十秒にて一着、吉田眞太郎のグラデヤートル式四輪車は三分十六秒にて二着、ビー、アベンハムのトーマス式三分五十秒を要したりき』6)

 流石に2輪のトーマスは、その軽量さからか、1着でゴールした。また最も経験豊かなはずのアベンハイムは、意外にも吉田が乗る重たいグラディエートルの後塵を浴びた。これを不服としたのか、アベンハイムは最後に2輪のトーマス号に乗り換え、独りで1周し、結局は須藤貞三郎と変わらぬタイムを叩き出し面目を保った。
 上記のタイムから換算すると、3台の自動自転車の平均速度は次のような数字になる。もっともこれは不忍池の周回トラックが、正確に1マイルだったと仮定した話である7)

1 トーマス(2輪)     36km/h
2 グラディエートル(4輪) 29km/h
3 トーマス(3輪)     25km/h

ちなみに同日の自転車競走で一流選手が叩き出した最速ラップは、1マイル2分30秒を切っていた。この時点では、まだ自転車のほうが自動自転車より速かったことになる。
 日本初のモーター競走をとらえた写真は、雑誌「輪友」明治34年12月号に一枚、小さく掲載されている。上(写真5)はそれを拡大したもの。ここには、グラディエートルの客座に着帽で鎮座し、大観衆の中、堂々と不忍池を一周する吉田の姿が写し出されている。後ろで操縦しているのは双輪商会の社員。この写真は3台で競走中のものではなく、吉田が単独でデモ走行した時に撮られたと思われる。得意満面の吉田の様子がうかがえる。
 またさらに決定的な瞬間をとらえたのが(写真6・Title Photo)である。この写真は、米国で発行された自動車雑誌「The Hoseless Age」に収録されていたものを筆者が発見し、(文献5)で発表した。おそらくは、アベンハイムか関係者が日本からアメリカ本国へ送っていたものであろう。写真のタイトルには「日本初のモーターサイクルレース」と記されている。
 この写真は様々な意味で日本オートバイ史の重要なひとコマを我々に与えてくれる。まず左端に写る2輪は、9月24日にアベンハイムらが稲毛海岸までの試運転を行なったトーマス・オート・バイである。わが国初の遠乗り試運転を成功させた自動自転車の実像を、ここで初めて確認することができた。
 また右端のトーマス・オート・トライも、写真として初めて確認されたもの。さらに謎の外人アベンハイムも、ここで初めてその姿が明らかになった。「The Hoseless Age」誌の記事は、この外人の名を、" F.B.Abenheim "とはっきり記している。したがって横浜と神戸に駐在していた3人のアベンハイムうち、日本自動車史の露払いを行なった人物は、F・B・アベンハイム(F.Berthold Abenheim)だったということになる。
 ここに掲げる2枚の写真は、わが国で撮影された自動自転車として、筆者の知る限り、現在のところ最古の写真である。これより前、明治29年1月に日本に初めて渡来した石油発動自転車、H&Wは、残念ながらまだ写真が見つかっていない。
 この自動自転車競走は、パイオニア期の代表的な自動自転車3種が、初めて東洋の帝都に出そろい、一気に出走した歴史的な瞬間であった。同時に、日本モーターレース史も産声を上げたのである。



文献1「日本自動車工業史稿」昭和40年10月 (社)日本自動車工業会発行
文献2「The Japan Directory」1900〜1906
文献3「運転手生活の十有八年・大隈侯爵邸運転手林平太郎」雑誌モーター大正8年1月号所載
文献4「自転車の一世紀」(財)自転車産業振興協会編集発行 昭和48年
文献5「戦前国産オートバイの残像」岩立喜久雄(社)全国軽自動車協会連合会発行「軽自動車情報」1992年1月号(1987〜1992年連載)
文献6「トーマス式自動二輪車試乗成績」雑誌「輪友」明治34年12月号所載
文献7「Horseless Vehicles Automobiles
Motor Cycles」Gardner D.Hiscox 1900 N.Y.
文献8「The Hoseless Age」1902年1月15日号(デトロイト自動車図書館所蔵)


●写真解説

写真1・1901年トーマス・オート・トライ(米版カタログより)
 
写真2・1900年E・R・トーマス社の広告(米雑誌
"Motor Age"より)
 
写真3トライシクルからクォードラィシクルへの転換(文献7より転載)
 
写真4・1901年グラディエートル・クォードラィシクル(仏版カタログより)。吉田のグラディエートルは空冷エンジン付の同型車であった
 
写真5・1901(明34)年11月3日、大日本双輪倶楽部秋季大競走会。大観衆の中を走行する吉田眞太郎とグラディエートル(文献6より転載)
 
写真6(Title Photo)



●脚注
 
1)トーマスに続いて米国では、オリエントがド・ディオン・ブートンのノックダウンとライセンス生産を、またキャンダ(Canda)もライセンス生産を行ったが、トーマスほど長くは続かなかった。
 
2)まだロシア大使館はなかった。
 
3)もともとは競馬のレーストラックとして使用されていた。これも明治10年代に横浜の外人居留地で洋式競馬がおこり、東京に伝わったもの。
 
4)この日の観客数は、数万に登ったとの記録(輪友、明治34年12月号)もある。
 
5)詳細は不明。双輪商会を通じて、このトーマス号を購入した当人か?
 
6)萬朝報に収録された3車のタイムは、当時の自転車競走の慣習にならい、1マイルあたりのタイムを表している。実際の自動自転車競走は2周しており、時事新報では全2マイルの所用時間をとり、オート・バイが5分25秒、オート・トライが6分32秒、グラディエートルが8分3秒と記載した。
 
7)当時の自転車競走トラックは、もともと洋式競馬場を使ったものが多く、不忍池や目黒競馬場、また大阪の鳴尾競馬場なども1周1マイルと定められていた。


Title Photo
(写真6):1901(明34)年11月3日、日本初の自動自転車競走スタートの瞬間。左から須藤貞三郎とトーマス・オート・バイ、吉田眞太郎とグラディエートル、アベンハイムとトーマス・オート・トライ。右側の不忍池の水面近くまで観客がひしめいている(文献8より転載)



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Last Updated 7th July 1995