日本自動車百年史 第2章 明治・二輪編

第5節 ド・ディオン・ブートン来る(前編)


2.5.1 ド・ディオン・ブートン・トラィシクル
2.5.2 H&Wに続き日本に到着したオートバイは?
2.5.3 レノール商会の石油発動三輪自転車
2.5.4 四人乗りの石油発動自転車?
2.5.5 四輪自動車の初渡来
2.5.6 明治34年までに東京で走った自動車
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2.5.1 ド・ディオン・ブートン・トラィシクル

 十文字信介がH&Wを輸入した1896(明29)年ころ、欧州の自動車開発競争は、フランスを中心に目まぐるしく急展開していた。誕生したばかりの自動車をよたよたと走らせ、耐久性を競うレースが開かれ、ドイツのベンツやダイムラー、フランスのルノーやパナール、プジョーといった20世紀に大きく飛躍する開拓者達が頭角を現わし、ガソリンエンジンによる自動車技術の最初の基盤を築き上げつつあった。
 ちょうどこのころ、当時「馬なし馬車」と呼ばれたパイオニア期の4輪自動車に混じって一緒に競走する、小さな3輪自動自転車が出現する。これがパイオニア期のオートバイ誕生に決定的な影響を与えることになる、ド・ディオン・ブートンの「モーター・トライシクル」であった。
 東京でH&Wが走行した1896(明29)年1月の時点で、ミュンヘンのH&W社はすでに解散し、パリでライセンス生産されたダンカン・シュベルビー社のH&Wも、前年の1895年のうちには終結を迎えていた。そしてこれ以後の数年間というものは、エンジン付きの2輪車の開発は、西欧でも一旦影を潜めるかのように低迷してしまう。つまり史上初の量産オートバイだったH&Wに続く、2番目の量産車たる2輪車が登場するには、さらに数年を待たねばならなかったのである。
 この当時、自転車の分野では、すでに安全型自転車が完成の域に達し、自転車愛乗家が急増すると同時に、部品産業を含めた自転車製造業界が確立され、仏、独、英を中心に、有力な自転車メーカーが出そろいつつあった。だが安全型自転車に装着して、2輪の「モーター・バイシクル」を誕生させる原動力となる超小型ガソリンエンジンが出現するには、まだ5年近い年月が必要であった。ド・ディオン・ブートンは、この2輪オートバイ開発のブランクともいえる時期に成功をおさめて、エンジンの小型軽量化を進め、欧米にオートバイ産業を発生させる火つけ役となったのである。
 ド・ディオン・ブートン社とは、パリ社交界で名をはせた伯爵、アルベール・ド・ディオン(1856-1946)と、もと蒸気機関技師だったジョルジュ・ブートン(1847-1938)のふたりが共同設立した会社であった。彼らは1880年代の終わりから、蒸気エンジン付きひとり乗り小型3輪車の開発を進め、改良を重ねていたが、ドイツのダイムラーらの影響を受けてガソリンエンジンに転向し、1895年の終わりには、(写真1)のようなモーター・トライシクルを完成させていた。
 この車体には、当時、自転車業界で生産されていた3輪車、つまりトライシクルが使用された。トライシクルとは、静止状態でも転倒しないことから、元来、2輪の自転車に乗れない初心者や女性向けに作られた3輪自転車であった。この当時は、ラグとパイプをロウ付けして組む、自転車フレーム製造技術が熟成された時期でもあり、そのトラス構造に組んだフレームは非常に堅牢で、しかも軽く、またうまいことにサドルの後ろには、単気筒エンジン一式を搭載するだけのスペースも確保されていた。このトライシクルを流用して、後部にダイムラー型の自社製単気筒4ストロークエンジンを搭載したのが、ド・ディオン・ブートンのモーター・トライシクルだったのである。

 ド・ディオン・ブートンのトライシクルと、2年前に登場していたH&Wとを比べると、このトライシクルが、じつにシンプルに構成さていることに驚かされる。というよりも、H&Wがいかに複雑な機構を多用していたか、改めて再認識させられるといってもよいだろう。この変革の最大の要因は、ド・ディオン・ブートンが電気式点火装置を採用したことにある。H&Wに装着されていたチューブイグニッションに比べ、ド・ディオン・ブートンの電気式点火は、機構 の簡素化や、軽量化のみならず、その信頼性においても、格段に進化していた。またこの3/4HP、185ccの小型単気筒エンジンを、無理に2輪自転車に装着しようとはせず、まず十分な強度をもつトライシクルに搭載した点においても、より堅実な手段を選んでいた。
 まだ気化器にはH&W同様のサーフェイス・キャブレターが装着されていたが、それでもこのシンプルなトライシクルは、乾電池とガソリンが続く限り、じつにスムースに走行し、当時の耐久レースで、パイオニア期の4輪自動車と肩を並べて完走する性能をかち得ていたのである。

 
2.5.2 H&Wに続き日本に到着したオートバイは?

 読者の中には、3輪のド・ディオン・ブートン・トライシクルは、果たしてオートバイといえるのだろうか? という単純な疑問を抱く人もあるかもしれない。これまで日本のモーター史の上でも、ほとんど言及されずに通り過ぎてきた問題であり、ここで歴史上の分類について論ずる余裕はないが、ただ筆者はエンジン付きのトライシクルや、さらにこれを4輪とした「クォードラィシクル」も、モーターサイクルの一種と考えている、とだけ述べて本論を進めたい。
 西欧のオートバイ史のあゆみの中で、H&Wに続いて誕生した量産車は、上述のとおり、ド・ディオン・ブートンのトライシクルであった。またこれを追ってフランスでは、クレメン、グラディエートル、マロ・ガルドンといった有力な自転車メーカーを筆頭に、十指に余るほどの会社が、全く同じ型式のモーター・トライシクルの生産を開始する。そして3、4年の内には、イギリスの自転車メーカー、ロイヤル・エンフィールドやアリエルがライセンス生産を行ない、さらには大西洋を越えてアメリカにまで、このモーター・トライシクルの製造工場が広がっていく。
 さてここで、H&Wに続いて日本に到着したオートバイは何だったのか? という点について検証してみたい。1896年からの5年間というものは西欧でも、H&W以降、2輪オートバイについては主だった量産の動きは見られず、上記のようにモーター・トライシクルだけが世界各地に伝播していた。無論、この間にも2輪車の試作開発が絶えることはなかったが、実際に販売されたものとしては、ド・ディオン・ブートン型トライシクルか、あるいはそのバリエーションばかりであった。
 欧米先進国で繰り広げられたこの動きが、最新技術を貪欲に吸収しようと目を光らせていた明治の日本人によって、迅速にキャッチされていなかったはずはない。またこの時期にオートバイの類が日本に輸入されたとすれば、それは可能性からいっても、まず第一にド・ディオン・ブートン型のモーター・トライシクルだったと推測できる。
 ここで結論から先に申し上げると、現在までに筆者が知り得た限りでは、やはりこの手のモーター・トライシクルが神戸港に到着し、走行した記録が、確実な史料としては、H&Wに続き最も古い。
 ただしその時期は、1901(明34)年8月と、十文字のH&W試走から5年もの年月を隔てている。またこの空白の5年間には、いまだ史実の確証は得られないものの、他にもモーター・トライシクルの類が輸入された兆候が全くないわけではなかった。さらにこの5年の間には、4輪自動車も渡来し、日本のモーター史がいよいよあけぼのを迎える、注目すべき時期でもあった。
 そこで、1901(明34)年に神戸で走ったモーター・トライシクルの記録はひとまず脇に置き、これ以前に現われる記録と、4輪自動車の渡来について、年を追って確認しておきたい。
 
2.5.3 レノール商会の石油発動三輪自転車

 まず(写真3)の新聞記事をご覧いただきたい。この記事は、H&W試走から8ヵ月後に登場している。

●1896(明29)年9月12日付 都新聞 5頁
『石油発動自転車
仏人某が近頃の発明にかかる該自転車は石油発動にて運転する三輪車にて手足を労せず運転し得るの車にして僅かに柁を取るの労のみにて峻坂険岳と雖も自由に運転し得るの自転車にて不日横浜157番レノ商会に見本到着の筈なり』

 8ヵ月前に行なわれたH&W試走の余韻もあってか、ここでも「石油発動自転車」の呼び名が使用されたが、注目すべきはこれが『三輪車』であること。そしてフランス人が近頃発明した、という記述からして、この3輪の石油発動自転車とは、同年から本格的な生産が始まったばかりの、ド・ディオン・ブートン型トライシクルを指していると思われる。またこの記事は広告の類ではなく、都新聞が東京近辺の事件のひとつとして掲げ、『不日(近日の意)見本到着のはずなり』とはっきり記している点が興味深い。
 ところが前後の東京の新聞各紙を調べてみても、この件に関連する記事や続報は、残念ながら発見できなかった。したがってこの「石油発動3輪自転車」が、果たして本当に横浜に到着していたかどうかは、未だ不明のままである。ただ時期やその内容からして、このような動きがあったことだけは確かであり、未確認ながらあえてここに紹介しておく。1)
 
2.5.4 四人乗りの石油発動自転車?

 次にこれも未確認ではあるが、翌年の1月に、以下の様な奇妙な新聞記事(写真4)が現われる。

●1897(明30)年3月14日付 報知新聞 (5頁)
『新案の自転車
来る四月下旬横浜居留地二十八番館に見本として輸入すべき石油発動自転車は仏国ハバ製造所に於て発明したるものにして大抵四人を乗せ一時間二十八哩余りを走り得べく坂の昇降等自在にして頗る便利なるが其価格七百弗なりと』
(この記事は'88年に文献2で発表された)

 記事中2度も『自転車』の語が使われているが、この「4人乗りの石油発動自転車」とは一体3輪なのか、あるいは4輪なのか不明瞭である。この当時、フランス製の4人乗りといえば、まず自動車以外には考えにくいのだが、『ハバ製造所』に該当するメーカーというのも今のところ見当がつかない。
 ただし(写真5)を見ても分かるように、同年同月の時事新報では「自動車」の名称が使用されるようになっており、この時期はまだ自動車と自転車が混同されていたとは考えにくい。またその価格の「700弗」についても、前年のH&Wの価格が500弗、または500円といわれ、後述する翌年のパナール(4輪自動車)の価格が6千円だったことを考えると、本格的な自動車にしては少々安過ぎる値段ではある。おそらくは3輪、または4輪の自動自転車の類を輸入しようと、計画していたのではないだろうか。
 この記事も、その後の到着を裏付ける続報は発見されていない。しかも『見本として輸入すべき』といった文面からして、前出のレノール商会の3輪車よりも、日本到着の可能性は低いといえよう。横浜山下町28番地にあった「アメリカン・トレイディング・カンパニー」による、パブリシティ狙いの記事だったことも考えられないわけではない。
 そして約1ヵ月後、1897(明30)年2月18日付の東京日々新聞には、(写真6)のような記事が掲載され、1896年型のド・ディオン・ブートン・トライシクルが絵入りで大きく紹介されている。このさし絵は前年に、フランスで描かれたエッチングを模写したものであった。「自動石油三輪車」という呼び名、またパリでは実用段階に入った旨が記されている点に注目されたい。先進国の最新技術情報は、このように迅速に新聞紙上で報じられ、一般の人々にまで紹介されていたのである。
 この2ヵ月後には、(写真7)のように、空気入りタイヤ付きの米国製電気自動車が、「電車」として紹介されている。
 だが4輪の自動車が日本に渡来した確実な記録の登場は、翌1898(明31)年まで待たねばならない。
 
2.5.5 四輪自動車の初渡来
 現在までに検証された史料のうち、日本の土の上を走行した最も古い自動車と確認されているのが、フランス車パナール・ルバッソールである。
 「自動車初輸入」として、この記録が登場するのは、以下の新聞記事である。

●1898(明31)年1月11日付東京朝日新聞(2頁)
『自動車初輸入
仏国ブイ機械製造所テブネ技師は仏国に於て馬車の代りに発明されしトモビルと称する石油の発動にて自由自在に運転する自動車一両を見本として携え来りしが其最高速力は一時間三十キロメートルを馳する由』

 フランス製の自動車を日本へ持ち込んだテブネなる人物は、退役海軍技師のジャン・マリー・テブネ(1851-1924)であった。そしてこの自動車が東京の築地−上野間を試運転した様子は、以下の新聞によって伝えられていた。

●1898(明31)年2月7日付東京朝日新聞(2頁)
『石油自動車の試運転
仏国に於て従来実用に供せられつつある石油インジン自動車は普通四輪車にして馬車の馬なきものの如き形状あり軌道に依らず市街を自由に行動し得らるる由なるが這回仏人テベネなる者該車を我国に輸入せんと実物を携え来朝目下築地ホテルメトロポルンに止宿し居り昨日午後1時築地上野間に試運転を行ないたるが我国人の意に適せんには二百万円の資本を以て我国に製造工場を設立し広く需要に応ずる筈なりと』


 上記のとおり、試運転が公開されたのは、前日の2月6日であった。そしてこの試運転の様子は、当時来日中だったフランス人画家ジョルジュ・ビゴー(1860-1927)の画集「極東にて」(1898年2月)にスケッチされていた(写真8)。また翌月3月5日の報知新聞には、さし絵入りでこの『石油自動車』が紹介されている(写真9)。
 そして3月6日〜10日の時事新報には、この自動車の競売広告(写真10)が掲載されている。広告文からは、テベネが日本に持ち込み、売却しようとしたガソリンエンジン付き自動車の名は、パナール・ルバッソールだったことが確認された。ただし、この横浜居留地での競売会は不成立に終わったようである。

●1898(明31)年3月13日付 報知新聞 (2頁)
『石油動機車の売払
横浜居留地五十八番に於て一昨日築地居留地一番館に於て石油動機車の競売を為せしに当日五千三百円迄入札せしものありしも同機は六千円以上ならでは売却し難しとのことにて遂に落札せざれりし』

 その後このパナールがどこへ渡ったか、定かではない。おそらくは日本国外へ流転していったのであろう。
 
2.5.6 明治34年までに東京で走った自動車

 1898(明31)年2月に東京で走ったパナール・ルバッソールに続き、日本に渡来した自動車の記録を、もう2点確認しておきたい。これらは日本オートバイ史の幕開け当時の状況を知る上でも、有意義な史料と思われる。
 戦前期より、日本に最初に渡来した自動車は、1900(明33)年にサンフランシスコ在住日本人会が皇室へ送った献納車だったと考えられていた。前出のパナールによって、第1号車説が約2年遡ったことはもはや言うまでもないが、パナールに続いて東京に到着したこの献納車についても、近年の調査によってだいぶ実体が明らかになってきた。
 この献納車については、大正期に記された「明治事物起源」(文献5)に登場したのを端緒として、過去さまざまな調査や論証が繰り返されてきた。ところが'80年代になり、明治期自動車史研究の第一人者、大須賀和美氏の調査によって、以下の事実が解明された。
 まず皇太子(後の大正天皇)御成婚記念(明治33年2月11日)として在米日本人会が献上した自動車が日本に到着したのは、1900(明33)年の8月であったこと。そして車種はシカゴのウッズ・エレクトリック社が製作した5人乗り電気自動車であった。米国で撮影されたと思われる同車の写真は文献6に、さらにその模写は当時の東京日々新聞(写真11)に掲載されている。
 この電気自動車が皇居周辺を試走した事実は、10年後の1911(明44)年10月8日付時事新報に記されている。ただしほんのわずかな試運転が行なわれただけで、実際の使用はないまま、東宮御所に保管されたようである。
 ウッズ電気自動車に続き、東京で走行したと思われるのは、1901(明34)年3月に横浜に到着した、アメリカ製蒸気自動車ナイアガラであった(文献7より)。(写真12)の新聞記事は自動車史研究家佐々木烈氏が発見したもの。記事中には、これを輸入し販売を計画した横浜のブルール兄弟商会支配人(外国人)の運転により、横浜−新橋間を2時間15分かけて走行した旨が記されている。
 このナイアガラを輸入し、販売を試みた横浜山下町の「ブルール兄弟商会」とは、その直後にオートバイの販売にかかわり、日本オートバイ史の幕開けに大きな影響を与えた貿易商である。
 以上のように、近年の自動車史研究家諸氏の尽力によって、1898(明31)年2月から1901(明34)年までの約3年間に、ガソリンエンジン付きパナール(仏)を嚆矢として、電気式ウッズ(米)と蒸気式ナイアガラ(米)の3台の自動車が日本に到着していたことが確認された。続く明治35年からは、外国人貿易商や商館によって、販売目的の輸入が徐々に開始されていくが、新発明品の自動車を日本に持ち込む試みがおこったのは、この3年間だったと考えてよいだろう。
 西欧のフランスやドイツで自動車の製作販売が始まったのは、1890年代半ばのことである。まだパイオニアマシンの段階ではあったが、この頃から貴族階級が「馬なし馬車」を購入するようになっていた。これまで紹介してきたように、日本の新聞紙上にこの「馬なし馬車」が紹介されたのは、H&Wが輸入された1896(明29)年からであった。そして実際に自動車の現物が持ち込まれたのは、さらに2年後の1898(明31)年であった。つまり西欧本国での動きから、3年ないし5年の時差を経て自動車が渡来していたことになる。
 この自動車初渡来の経緯を、オートバイ史の動きと比較してみると、東京で走行したH&Wの輸入は、極めて迅速に、しかも日本人自身の計画と資力によって行なわれていたことに気付く。その理由は、おそらく「一人乗りの汽車」と「馬なし馬車」とでは、車輌価格が桁違いだったからではあろう。
 これらの状況から察して、H&W以降の空白の5年間にも、ド・ディオン・ブートン型トライシルクルが日本に渡ってきた可能性は低くないと思われる。日清戦争以後のこの時期は、安全型自転車の輸入が急増しており、自動車よりはるかに手軽なモーター・トライシクルが、自転車に混ざって船積みされていたとしても何ら不思議はない。前出のレノール商会の石油発動3輪自転車のようなものは、ほかにも横浜や神戸の外人居留地に到着していたのではないだろうか。



文献1'Meikelejhon's Yokohama Directory for 1899' 1899年 横浜
文献2「日本自動車史の史料的研究」大須賀和美 中日本自動車短期大学論叢 第10〜22号 1980〜1992年
文献3「ベールを脱いだ幻の第1号車」斎藤俊彦 1987年3月 自動車とその世界 From Toyota No.222 トヨタ自動車M広報部
文献4「轍の文化史」斎藤俊彦 平成5年 ダイヤモンド社
文献5「明治事物起源」石井研堂 大正15年版 春陽堂
文献6「明治事物起源 下巻」石井研堂 昭和19年版 春陽堂
文献7「わが国最初の輸入車」佐々木烈 日刊自動車新聞 平成3年10月19日掲載


●写真解説

写真1Title Photo
 
写真2・「馬を用いらざる車輌」1896(明29)年4月15日付中央新聞(1頁)。ソリッドタイヤの、3馬力〜3・3/4馬力の水冷ガソリンエンジン付き自動車が紹介されている。この時点ではまだ「自動車」の名は登場しない
 
写真3・「石油発動自転車」1896(明29)年9月12日付都新聞(5頁)。トライシクルのことか?
 
写真4・「新案の自転車」1897(明30)年3月14日付 報知新聞(5頁)
 
写真5・「巴里にて新流行の自動車」1897(明30)年1月27日付時事新報(2頁)。「自動車」の名が使用されている
 
写真6・「自動石油三輪車」1897(明30)年2月18日付東京日日新聞(6頁)。1896年型のド・ディオン・ブートン・トライシクルが描かれている
 
写真7・1897(明30)年4月25日付時事新報(1頁)。「電車」と題しアメリカ製の電気自動車を紹介している
 
写真8・「自動車を見て驚く東京市民」1898(明31)年2月6日、パナール・ルバッソールが東京築地−上野間を試運転した時の様子。ジョルジュ・ビゴーの画集にスケッチされていた(文献4より転載)
 
写真9・「石油自動車」1898(明31)年3月5日付報知新聞(1頁)。東京に持ち込まれたパナール・ルバッソールを、さし絵入りで紹介している。→Zoom in
 
写真10・「競売広告」1898(明31)年3月6日付時事新報(10頁)
 
写真11・「東宮殿下に献上の自動車」1900(明33)年9月8日付東京日々新聞(4頁)。同年8月に到着し皇室へ献納された米製ウッズ電気自動車
 
写真12・「新輸入の自動車ナイアガラ」1901(明34)年6月20日付二六新報(1頁)。→Zoom in


●脚注
 
1)『横浜157番レノ商会』とは、横浜居留地本村通り157番地にあったレノール商会のことと思われる。社長はフランス人、J・レノール(J.Reynaud)。(文献1 p145 より)



Title Photo
(写真1)
:1895年型ド・ディオン・ブートン・モーター・トライシクル


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Last Updated 7th July 1995