日本自動車百年史 第2章 明治・二輪編

第3節 史上初のモトラッド


2.3.1 2.3.1 H&Wの機構と操縦法[
2.3.2 H&W社の顛末
2.3.3 未完成車の性能
2.4.4 H&Wが各国に与えた影響

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2.3.1 H&Wの機構と操縦法

 1896(明29年)年1月15日、皇居宮城前を走り抜け、日本オートバイ史の幕を開けたH&W(ヒルデブラント&ヴォルフミューラー)とは、一体どんな乗り物だったのだろうか。
 まずH&Wとは、史上初めて量産された動力付きの2輪車だったと位置づけることができる。自転車にエンジンを取り付ける試みは、前出の1868(明1)年、フランスのルイ・ギローム・ペローが特許を取得した蒸気ベロシペード以来26年の年月を経て、H&Wに至ってようやく複数台数が生産販売される段階に到達していた。
 ただし量産車とはいうももの、この19世紀のパイオニアマシンを現在のオートバイと比較すると、その原理や構造にはかなりの隔たりがある。写真だけでは、何やら得体の知れない異形の作品にしか見えないかもしれない。
 H&Wと現代のオートバイの最大の相違点は、フライホィールをもたない「クランク軸開放型」のエンジンにある。また点火装置と気化器も20世紀のものとは原理が異なり、一種複雑で不可解な仕掛けを持っている。それ以外の部分に関しては、4ストロークガソリンエンジンの原理から、前輪のステアリング機構に至るまで、基本的には現行のオートバイと同じ方式といえよう。
 まず点火装置だが、これはチューブイグニッション、または赤熱管点火方式と呼ばれるもので、H&Wより10年早く、すでにゴットリーフ・ダイムラーが彼の4ストロークエンジンに採用していた。1885(明18)年にダイムラーが試作し特許を得たガソリンエンジン付の木製2輪車(DRP36423)にも、同様のチューブイグニッショインが装着されている。これはまだ電気を使ってスパークプラグを点火させることができなかった時代の点火装置であり、外部からバーナーによって白金製のホットチューブ(赤熱管)を常時赤熱させ、1,000度以上の高熱で圧縮混合気に引火させ、爆発行程をおこす。つまり火炎で直接赤めるグロープラグと考えていただきたい。
 この点火装置は始動前の準備として、マッチでバーナーに火を点け、ホットチューブを赤熱させておくという予熱時間を必要とする。東京で走行したH&Wでは、チューブイグニッション用の燃料にアルコールが用いられ、『三分及至五分程熱したる後...』、押しがけによって始動したと、新聞記者が記している(前出1896・明29年1月21日付毎日新聞)。
 次に気化器だが、これはサーフェースキャブレターと呼ばれるもので、我々に馴染み深いスプレー式の気化器が20世紀初頭に登場する以前に、広く採用されていたもの。1880年代の半ばまでに、オットーやダイムラーが完成させた方式だった。H&Wの後にも、ド・ディオン・ブートン型のエンジンを持つオートバイや自動車に多用されている。
 サーフェースキャブレターの原理は、密封したガソリンタンク本体の中にガソリンの液面から気化した揮発ガスを充満させ、これをエンジンに吸い込ませるというもの。混合気というより希薄な気化ガスのようなものであり、まだ低速、低出力だった時代のエンジンに限り使用可能な方式でああった。特に冬場の始動性は悪く、エンジンがかかるまで車体全体を何度も横に揺すってタンク内のガソリンをかき回し、少しでも多く気化させるという荒技(?)が、いわばチョークの代用として自然に行なわれていたのである。
 ここでH&Wを走行させる手順を、詳しく説明してみよう。まずタンクにガソリンを投入し、チューブイグニションのバーナーに火を入れる。数分後、赤熱管が赤くなったことを覗き窓から確認したら、ハンドル右手のスロットルスクリューを回し、混合気の吸入量を適当な位置に合わせる。そしてサドルに跨がり、ハンドルを握りしめ、足で地面を蹴って勢いよく前に押し出す。もしエンジンが爆発を始めれば、H&Wはそのまま走りだすことになる。加減速(アクセル)コントロールは、右手の親指でスロットルスクリューを回すだけで行なう。点火時期を変えることはできない。また左手でタンクの左側にある回転ハンドルを回し、エンジンの両側に張られたピストンリターン用のゴムバンド(昔の床屋にあったレザーストラップによく似ている)のテンションを微妙に調整する。エンジンの回転数に合わせ、このゴムバンドの張力をかえることにより、強烈なノッキングを防いでいるのである。
 ここまでが順当に進めば、史上初のモトラッドはガソリンが無くなるまで走行を続けてくれる。だが問題は、これを止めようとする時に発生する。エンジンを減速するにしても、非常に緩慢なスロットルコントロールからは有効なエンジンブレーキを得ることはできない。また前輪上に唯一設けられたスプーンブレーキでは(後輪ブレーキはない)、1,489ccもある巨大なエンジンの惰力に制動力を加えることができない。無論クラッチもなく、もし交差点にさしかかって一旦停止したら、再スタートは最初の押しがけからもう一度やり直すことになる。早い話が、一度走り出したら真っ直ぐに走行を続けるだけの乗り物、といっても過言ではなかろう。さほどにパワフル、かつ制御が難しいマシンであった。
 以前、(写真1)のH&Wがドイツで走行する様子を観察したことがある。その印象は、前出の日本新聞(1896・明29年1月21日付)の見出しのような、まさに「一人乗りの汽車」といった豪快なものであった。後輪径から円周を求めれば分かるとおり、エンジンが1回転する度に2m近くも前進する。エンジン出力はわずか2.5馬力といわれるが、それでも1気筒あたり744ccもあるエンジンが燃焼するときの衝撃は激しく、爆発行程の度にライダーがサドルの上で上下に跳ね上がってしまうほどだった。また360度クランク並列2気筒の4ストロークエンジンは1回転づつ左右交互に爆発するが、その反作用から左右に車体全体が揺り動かされ、直進時でもフレームには軽いヨーニングが発生していた。まるで地面をクロールして、もがきながら前進するといった、異様な光景だったのである。
 以上のとおりH&Wの走りはあまり安定感のあるものではないが、そのスピードは意外なほど速い。極めて初期のパイオニアマシンにもかかわらず、後に普及したド・ディオン・ブートン型エンジンをもつマシンよりもはるかに力強いのである。事実、現存する(写真1)のH&Wは時速40km/hまで一気に加速することが確認された。また設計者ヴォルフミューラーは吸気ポートを拡大したレーサーも製作しており、最高速度は90km/hを得たと記録されている。馬車よりも速く路上を走る乗り物が存在しなかったこの時代に、どのような速度計測が行なわれたか不明だが、(写真1)のマシンを再生し、多くの史料を発掘したドイツのH&W研究の第一人者ヤン・シュピースは、当時でも市販型のモデルは時速70km/hはマークできたろうと語っている。日本で「時速60哩の自転車」、つまり最高速96km/hとして紹介した十文字信介の説も、あながち誇大表現ではなかったのかもしれない。

 

 
2.3.2 H&W社の顛末

 H&Wの特許(DRP78553)は、東京で試走する2年前の、1894(明27)年1月にドイツで申請されている。そして2ヵ月後には100kmの長距離テスト走行に成功し、その年のうちにミュンヘンの工場では生産が開始されていた。
 このパイオニアマシンを開発し、事業化を行なったのは、以下4名のドイツ人であった。まずヘインリッヒ・ヒルデブラントとウィルヘルム・ヒルデブラントの兄弟、そしてアロイス・ヴォルフミューラーとハンス・ゲイゼンホフという二人の技師である。
 1855年生れのヘインリッヒ・ヒルデブラントは、青年時代に安全型自転車の開発に熱中し、ミュンヘンで自転車クラブを創設するほど自転車に傾倒していた。そして1889(明22)年には、兄弟で、まず蒸気エンジンを搭載した2輪車を完成させている。蒸気エンジンから始めた経緯については、同じ時期にパリで精巧な蒸気エンジン付3輪車の試作を繰り返し、H&Wの直後に小型ガソリンエンジンの決定版を送出した二人のフランス人、アルベール・ド・ディオンとジョルジュ・ブートンの足跡を連想させる。
 3年後の1892(明25)年には、ヒルデブランド兄弟は、小型2ストロークエンジンを安全型自転車に搭載する試みも行なっている。しかしエンジン性能の低さから、2番目の試作車は失敗に終わったといわれる。この時ヒルデブランド兄弟のために2ストロークエンジンを製作したのが、ハンス・ゲイゼンホフであった。ゲイゼンホフはヒルデブラント兄弟と合流する前にも、カール・ベンツの下で働いていたようだ。ベンツは1886(明19)年に4ストロークガソリンエンジン駆動の有名な3輪自動車(ベンツ1号自動車)の特許(DRP37435)を取得しているが、その以前は、2ストロークエンジンの開発を行っていた。これはニコラス・オットーが4ストロークエンジンの特許を1884(明17)年まで占有していたからであり、そのため多くの発明家は、有望な4ストロークエンジンの開発をさし控えねばならなかったのである。
 やがてヒルデブラント兄弟は、もう一人の技師アロイス・ヴォルフミューラーの協力を得て、量産型のH&Wを完成させることになる。1893(明26)年の終わりには(写真2)のような試作車が出来上がっていた。ヴォルフミューラーは非常に優秀な技術者であり、H&Wの開発でもその中心的な役割を果たしていた。
 量産型H&Wのエンジンとして設計されたのは、90x117mm、並列2気筒、1,489ccの大排気量をもつ4ストロークエンジンであった。この巨大なエンジンに合わせて、専用のデュプレックス(2重)フレームも考案されている。そして前後の車輪には、自転車用として当時急速に普及しつつあった空気入りタイヤが、オートバイ史上初めて装着されていた。
 ヴォルフミューラーらは、1894(明27)年1月20日に特許を取得した直後に出資者を得て、ミュンヘンでH&W社を設立し、即座に生産体制を整えている。そして同年のうちには、史上初のモトラッドの生産が開始されていく。
 H&W社は、1895(明28)年10月18日に倒産を申告するまで、およそ1年間、H&Wの生産を続けた。ヴォルフミューラー本人は、この製造期間中に930台が工場を出たと書き残している。しかしその数字には疑問点が多く、実際は2〜300台ではないかとの説(文献1)もある。

 

2.3.3 未完成車の性能

 H&W社が倒産に陥った理由は、製造コストが販売価格を上回っていたこと、また途中から多くのクレームや返品をかかえこんだためといわれる。ドイツでのH&Wの販売価格は、当初は850RM(ライヒマルク)とされ、すぐに1,200RMに値上げされたが、それでも製作費がかさみ、原価は販売価格を大きく上回っていた。当時のドイツでは良質な自転車の平均価格が150RMだったというから、H&Wはその6倍から8倍の値段だったことになる。
 お客からの返品がおこったのは、倒産のわずか3ヵ月前のことであった。クレームの大半は、パイオニアマシンならではの悲劇的なもので、エンジンを始動できない、あるいは取扱いの不備によるトラブル、といった苦情ばかりだったといわれる。またチューブイグニションに点火する際、漏れた燃料に引火し、車輌火災をおこしたケースも少なくなかったようである。
 機構上の欠点としては、まず全体に耐久性が低かったことが指摘されている。当時完成の域に達しようとしていた安全型自転車に比べれば、あまりに壊れやすいという印象が否めなかったのであろう。特に、巨大なエンジンの鼓動によって酷使される後輪の細いタイヤの損傷は激しく、非常に寿命が短かかった。またチューブイグニッションの性能も完全なものではなく、エンジンは常にミスファイヤーをおこしがちだったようである。
 つまりは十分な開発試験が行なわれず、一足飛びに量産体制に入ったばかりに自滅した、いわば未完品だったのである。当然ながら、事業の失敗により、次の改良型に発展する道も閉ざれてしまった。
 とはいえこの史上初の量産車には特筆すべき先進的な部分が少なくない。まず第一にペダルを持たない、モーターバイシクル(原動機付自転車)とは別格のレベルの乗り物であったこと。またオートバイ史上最大級の排気量を持っていたにもかかわらず、H&Wの車重は85kgと非常に軽量であり、なおかつ稀にみる低重心のオートバイであった。ツインチューブのデュプレックスフレームも、H&Wで初めて誕生したもの(後にイギリスの名車スコットは、1909年から30年間に渡り終始このフレームレイアウトを採用した)。しかもH&Wでは、フレームパイプが、オイルタンクやエアーインテークマニフォールドを兼用しており、この点でも先駆をなしていた。ほかにも空気入りタイヤや、後輪のディスクホィールなど歴史上初の試みに溢れている。
 H&Wの実力を最もよく伝えるものとして、黎明期のモーターレースに出走したときの記録があげられる。ヒルデブラント自身によってイタリアに持ち込まれ、ツーリン〜アスチ間往復100kmレース(1895年5月28日)に参加したH&Wは、坂道の多い悪路を走りきり、2位と3位に入っている。ちなみにこのときの優勝車は、ダイムラーの4輪自動車であった。この時点ではH&W以外のエンジン付き2輪車は登場していないわけだが、性能的には他の多くの4輪自動車を凌駕していたのである。
 
2.3.4 H&Wが各国に与えた影響

 H&Wが史上初の量産車だったということは、同時に、走行可能な実車が各地に送られ、初めて多くの人々に目撃されることでもあった。つまりH&Wが走行することによって、人々は初めて機械の力で自由に走行する2輪車というものを認識したのである。
 それがいかに衝撃的な事件であったかは、当時の人々の反応として、ドイツ本国だけでなく、フランス、イギリス、イタリアの記録にも残されている。前出の東京の新聞各紙は、誇張ともとれる表現で報道していたが、これはべつに極東の技術後進国だけの反応ではなかった。H&W誕生の衝撃は、迅速に欧州の大都市部をかけ回っていた。
 なかでも敏感に反応したのはフランス人であった。1890年代のフランスには、エンジン付の乗物の出現を期待する人々が世界一多く集まっていたのである。パリでは、よちよち歩きを始めた自動車を使って耐久レースが数多く催され、世界で始めて自動車クラブが創設されていた。
 パリでラッジ(英)自転車を販売していた自転車商ハーバート・ダンカンは、ドイツから到着したばかりのH&Wに感銘を受け、この特許を購入しライセンス生産を行なった。H&Wに乗車したダンカンは、この乗り物の将来性を評価し、オートバイは自転車にとって変わると確信していた。
 ダンカンは同業者のフランス人ルイ・シュベルビー(後にダラックやグラディエートル社で自動車を開発した技術者)と共同で「ダンカン・シュベルビー社」を興し、H&Wを「ペトロレット」と改名し、即座に製作に取りかかった。この時、パリの一流自転車会社グラディエートル社から移籍し、ダンカン・シュベルビー社の工場長となったトーマス・プリンガー(後にサンビーム社の開発者となる)は、H&Wは更に改良を加える必要があると主張し、ペトロレッテの生産に消極的だったといわれる。しかしダンカンは製作を強行し、1895(明28)年12月の第1回パリモーターサロンに6台のペトロレットを出品した。
 このパリモーターサロンでダンカンのペトロレッテを入念に観察した人の中に、アルベール・ド・ディオンがいた。ド・ディオンは、チューブイグニッションの欠点を指摘し、電気点火に換装すべきだと、ダンカンに助言していたといわれる。電気式の点火装置は、カール・ベンツや、ロバート・ボッシュによって、当時急速に進化し、信頼性を高めていた。ところがダンカンには、ヴォルフミューラーと同様に電気の知識がなく、ペトロレットはドイツのH&Wと全く同じ仕様のまま生産に移された。そしてH&W社と同様にクレームの続出を受けたダンカン・シュベルビー社は、50台のペトロレットを生産した時点でこれを中止した。ダンカンの計画も失敗に終わったのである。



文献1 'Der Braunschweiger Hildebrand & Wolfmuller' Jan Spies 1988
文献2 'La Motocyclette En France 1894-1914' Bourdache 1989
文献3 'Early Days in the British Motor Cycle Industry' Eric W. Walford 1931
文献4 'The World of Motorcycles(#7,#18)'David B.Wise & Cyril Posthumus 1979


●写真解説

写真1Title Photo
 
写真2・1893年の終わり頃完成した試作車。量産型との相違点は、フレームに側板が貼られ、ピストンリターン用のゴムバンドがないこと。この直後の1894年1月20日に特許が申請され、同年3月には100kmのテスト走行に成功した。
 
写真3・国立ドイツ博物館に展示されているH&Wのカットエンジン。後輪の車軸をクランクシャフトとして回転させるレイアウトがよくわかる。つまりこのユニット全体がクランクケースのない1個のエンジンと思えばよい。コンロッドはむき出しであり、長いシリンダーのスカート部も開放したままで、後方からはピストンの裏側が覗ける。
 
写真4・1894年1月20日付特許申請書(ドイツ特許番号DRP78553)に添付された構造図。Fig.1は全体側面図、Fig.1aは後面図、Fig.2aはエアーフィルターの断面図(Fig.1でのMにあたる)。量産型では、このエアーフィルターが90度転回し、正面には七宝焼のエンブレムが取り付けられた。
 
写真5・Fig.2は全体平面図。約50pもある長いコンロッド(l・l吹jは、並列シリンダーに対して後方で少し開きながら後輪のクランク(g・g吹jに接続されている。このオフセットに対処するために、小端部はボールジョイントとされ、大端部には自動調心のボールベアリングが内蔵された。Fig.5〜7はスロットルレバー部(右ハンドルバー上にある)の詳細3面図だが、量産型では大幅に変更されている。
 
写真6・Fig.3点火装置と吸排気バルブ機構の断面図。右の箱型の部分がチューブイグニッションとよばれる点火装置。バーナーからは絶えず火炎(L)が下に向けて発せられ、Eの白金製ホットチューブを常時1,000℃以上に加熱しておく。図の下方には3本のリングをもつピストンの断面も描かれている。dは水冷用のウォータージャケット。
 
写真7・Fig.4はFig.3と同じ部分の平面図。V1・
V2は自動吸気バルブ(吸入行程での気筒内の負圧と、柔らかいバルブスプリングによって自動的に開閉が繰り返される)。V3・V4は排気バルブ。E・E垂ヘ点火用のホットチューブ。圧縮混合気がこのホットチューブの内側に触れることにより引火し、爆発行程が始まる。V5・V6はホットチューブの閉止弁(量産型ではこの閉止弁が取り除かれた)。mは排気バルブを開閉するためのプッシュロッド。後輪と同軸のカム(Fig.1図のe)によって前後に動くたった1本のプッシュロッドにより、360度クランク2気筒の4ストロークエンジンが回転を続ける。左右の気筒を交互に爆発させるために、複雑なリンケージ(n・i・q・s)が設けられている。tの上にマウントされたnが時計の振り子のように移動することにより、tのツメがWとW垂フロッカーアームを左右1回おきに引っぱり、V3とV4の排気バルブが交互に開閉する。
 
写真8・サーフェースキャブレターの断面図。
 
写真9・シリンダーブロックと、バルブ回りの部品。
 
写真10・ピストンとクランク回り。
 
写真11・ガソリンタンク上部のエアインテークとスロットルバルブ。手前の回転ハンドルは、ピストンリターン用のゴムバンドの張力を調整するためのもの。
 
写真12・クランク軸も兼ねた後輪のアクセルシャフト回り。コンロッドにピストンリターン用のゴムバンドを引っ掛けている。その奥はカムローラーと排気バルブを駆動するためのプッシュロッド。後輪のディスクホィールに貼り付けられた黒いリングがカムである。車軸を中心としたこのユニット全体は、Wナットで締結され、前後方向にアジャストできる。これによりエンジンの圧縮比まで調整することができるのである。
 
写真13・フランスでライセンス生産されたH&W。ドイツ的な厳しい名前を避け、「ペトロレット」と改名された。パリのダンカン・シュベルビー社が、1895年半ばから終わりにかけて50台だけ生産した。この50台という数字は信憑性の高いものといわれている。東京に渡った1台は、『ドイツミュンヘン市で製作されたH&W』との記録からして、フランス製ではなく、ドイツ本国で生産された内の1台と考えられる。
 
写真14・同じくフランス製ペトロレッテの正面写真。ドイツ製のH&Wと全く同じ形状であり、見分けがつかない。乗車しているのは当時フランスで名をはせた一流自転車選手チャールス・テロン。ダンカンとシュベルビーは、1885年春にリールで行なわれた自転車競走会でのデモ用にこのペトロレッテを持ち込んだが、チューブイグニッションから引火した車輌火災により走行できなかった。
 
写真15・1895年にイギリス、コベントリー市の自転車レース場でデモ走行したH&W。H&Wをイギリスへ初めて持ち込み、走行させたのは、ドイツ人技師モーリス・シュルテ。のちにトライアンフ製オートバイを世に送り出した張本人である。写真で乗車しているのもシュルテ本人といわれている。シュルテはこのH&Wに啓発されて、自転車業からオートバイ製造に乗り出した。ただしイギリスでのH&Wは、『始動することも、制止することも非常に困難な乗り物』と酷評され、フランスほどには受入れらなかった。



Title Photo
(写真1)
:ドイツのブラウンシュウェイグ市立博物館に保存されている1895(明28)年製H&W。1988(昭63)年に再生が施され、デモ走行も行なわれた。生産時からほぼ未使用の状態だったために完全な原型をとどめており、今も見事に走行できる状態にある。H&Wは世界中に10数台の現存が確認されており、ドイツには少なくとも3台の走行可能な再生車が残っているが、中でもこれは最良の1台。


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Printed as "Nihon Autobi Shiron" on "Motorcyclist extra edition"(Yaesu Publishing Co.)1992-1994
Last Updated 7th July 1995