日本自動車百年史 第2章 明治・二輪編

第12節 西日本の先覚者達
- 2.12.1 中央から地方への伝播
2.12.2 神戸居留地が発信源となる
2.12.3 自動自転車乗りの先駆C・マンチニ
2.12.4 広島の先覚者柴義彦
2.12.5 柴義彦オートバイ組立の時期
2.12.6 ピアス号オートバイの怪
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2.12.1 中央から地方への伝播
本編ではこれまで東京と横浜を中心に、黎明期のオートバイ界を探ってきた。これはとりもなおさず、東京横浜における事例が、日本オートバイ史の幕開けを告げる、最先端の出来事として進行していたからである。それらの事例は、過去の日本オートバイ史と比べて、じつはどれもことごとく早い時期に発生していたわけであり、また過去の定説には多くの事実誤認が含まれていたことも、拙論の検証作業によってお分かり頂けたことと思う。
過去にとりまとめられた日本オートバイ史は、口承によって語り継がれてきた内容を土台としたものが多く、また史実の確認作業がなされないまま、その受け売りが繰り返されてきたために、事実誤認が重なってしまう結果となっていた。しかも証言の多くは、太平洋戦争後になってから記録されたものが多く、当然ながら、明治10年代以前に生まれた斯界の第1世代にあたる先覚者達の体験談は取り入れられず、第2、第3世代の方々の記憶に頼るかたちで、明治期のオートバイ史が形成されてしまったのである。
その太平洋戦争後に記録された第2、第3世代の方々の証言の中には、関西や中京地区ほか全国の地方都市で繰り広げられた、パイオニア期の事例がいくつか散りばめられていた。いずれも先覚者達が大変な努力の末に、新しい文明利器たる自動自転車に取り組んだ貴重な体験談だったが、それらの正確な時期については、いずれも確証が得られるほどには整理されていなかった。そのため各事例を単発的に見ていけば、どれをとっても日本で最初の自動自転車体験だったと受け取れないこともないような、そんな漠然とした状況だけが伝わってくる内容だったのである。
だがこれまでに検証してしてきた当時の時代背景から考察しても、日本のオートバイ界のあけぼのは、まず東京横浜におこり、その後、各地方都市に派生していったと見るのが妥当である。そして情報や車輌の伝播は、当時の自転車業界の流通経路に従ったものであり、横浜や東京に本拠を置く大自転車商が各地に配していた販売代理店などを通じて、各地に拡がっていったと考えられる。
以上のような背景をふまえた上で、ここで関西における黎明期のオートバイ界について、少し検証を行ってみたい。
2.12.2 神戸居留地が発信源となる
本編で関西の記録が登場したのは、第6節(連載12回)の、神戸港メリケン波止場で走行したド・ディオン・ブートン型トライシクルの一件だけであった。1901(明34)年9月に地元の新聞、神戸又新日報に報じられたこの記録は、東京で吉田眞太郎らが初めてトーマス号の試乗会を行う2週間前という、極めて早い時期に実現された自動自転車走行の足跡であった。
当時の神戸港は、横浜に次ぐ大規模な外人居留地が設けられ、横浜と並ぶ交易拠点として、日本の表玄関の役割をはたしていた。明治期に日本に到着したオートバイは、必ずこの2つの貿易港を通過していたわけであり、また最初にオートバイ輸入を目論んだ外人商館は、いずれも両港の居留地に支店を構えていた。つまり東京横浜の次に、最新の輸入品が到着していたと考えられるのが、この神戸港だったのである。いや、横浜に出現したものならば、ほぼ同時に神戸にも届いていたと考えてもおかしくはあるまい。
ただし横浜に到着したモーターが、即座に帝都東京に持ち込まれ、販売が試みられたのに比べ、神戸でのそれは、さほど迅速に広まることはなく、しばらく神戸の地に留まったあと、一呼吸おいてから、周辺大都市の好事家の手に渡っていったようである。これは背後に控えるマーケットの違いによるものであった。
まず神戸には上記のド・ディオン・ブートン型トライシクル1)が外人商館に到着し、その直後には東京で公開されたものと同じトーマス号も、ほぼ同時に到着していた。このトーマス号については、第7節(連載13回)で述べたように、ブルウル兄弟商会の神戸支店が輸入したものと考えられる。神戸に最初に到着した2台、このド・ディオン・ブートン型トライシクルとトーマス号の2車が、その後どこへ渡っていったか定かではないが、いずれにしても東京で吉田眞太郎らが行ったような公式な試乗会は、神戸では開かれなかったようである。
次に神戸の地方新聞の紙上にモーターに関する事項が登場するのは、同年の翌10月のこと。以下の新聞記事には、神戸の自動自転車が居留地を飛び出し、市内を走り始めた様子が記されている。
●1901(明34)年10月7日付「神戸又新日報」(3頁)
「自転車界・(中略)但し新輸入の自働自転車に、近来市中を乗り歩く紳士も多く見受けられ候が、稍格好の不印なるに対して速力の点にて充分埋め合わせのつくものかと、乗り手は勿論の事、見物にさへも小気味よき程に感じられ候。これはご当地にも定めて流行と察し申候。(後略)」
この記事からは、複数の自動自転車が神戸に到着し、市中を小気味よい快速で走り始めた様子がうかがえる。また自動自転車が当地で流行するのではないかという、進歩的な見解も示されている。これは同時期の東京の新聞が自動自転車を高価で危険で実用性のないものと批判したのに比べ、さすがに居留地と一体の洋風文化が育った神戸は斬新な土地柄であった。
ただしこの記事が予測したとおり、自動自転車が神戸の地で流行するまでには、明治40年代に入るまで、あと5年以上の年月を要した。この記事のあとは、しばらく自動自転車関連の記事は影を潜め、再び話題を呼ぶのは、自動自転車に続いて4輪自動車が到着し、大型の自動車が往来の目を奪うようになった、翌明治35年の後半からの事である。
明治36年になると、同新聞は神戸近辺の自動車所有者(2輪も含む)の名前をつぶさに報じるようになるが、そこでも自動自転車の所有者は、さほど多くない。ちなみに明治36年1月30日付けの同紙に紹介された、モーターの所有者は以下の通り。
「ニッケル商会 6人乗り1台
橋本商会 二人乗り2台
マンチニ氏 自転車式一人乗り1台
その他日本人2名 一人乗り各1台」
ここで明らかに2輪の自動自転車と確認できるは、後者3名が所有する3台のみである。
また同年9月27日付けの同紙では、
「ニッケル商会 ガス式6人乗り1台
亜米利加テレジング商会某氏 蒸気式1台
神戸のマンチニ氏自転車式 1台
神戸の斉藤、兵庫の澤田、住吉の吉田氏
計3名 自転車式各1台」
となっており、わずかに1台の自動自転車が増えたにとどまっている。
この記録からも神戸のモーター界は、同時期の東京に比べやや少ない台数が、ゆっくりと動き始めた状況がうかがえよう。それにしても同時期の大阪よりはずっと多いモーターが神戸に集中していたことは確かである。
明治40年代になると神戸では、日本人と外人で混成された「神戸モーターサイクル倶楽部」が創設され、非常に紳士的で、エンスージャスティックな活動を見せた。詳しくは後述することになるが、この倶楽部が行なったヒルクライムレースや遠乗り会などは、まさにイギリスのアマチュアモータースポーツの源流に近いものであり、同時期に結成された東京MC倶楽部などよりも、はるかに洗練されモーターサイクリングが展開されていたのである。その点においても神戸は、特筆すべき土地柄だったといえよう。
2.12.3 自動自転車乗りの先駆C・マンチニ
さて上記のモーター所有者のうちで特筆すべきは、橋本商会とマンチニの2者である。橋本商会とは、当時神戸で最大規模を誇る自転車商であり、神戸市三宮町2丁目に本社を構え、イギリス製のハンバー号自転車を扱っていた。橋本商会はその後ハンバー製オートバイの東洋総代理店となり、昭和期にいたるまでオートバイ界に長くその名をとどめることになる。
またマンチニとは、神戸の貿易商ニッケル商会およびアンドリュース・ジョージ合名会社神戸支店に勤務するイタリア人であった。このマンチニなる外人は、黎明期の関西モーター界に多大なる影響を与えた先駆者であり、東京でいえば、さしずめブルウル兄弟商会のアベンハイムにも相当する重要人物である。当時の文献には、マンシン、マンチニー、マーシン、マンチュリーなどと雑多な呼び名で登場するが、すべて同一人物のこと。父親がイタリア人だったことは確かであり、それを考慮すればマンチーニと呼ぶのが正確かもしれないが、拙稿では最も多出する神戸又新日報の記述に合わせ、マンチニとしておく。
マンチニ(C・Mancini)は、東京で活躍したF・B・アベンハイムよりもなお、経歴が定かではない。ただこの人物は非常に滞在期間の長い、親日家の外人だったと思われる。これはまだ確証を得ていない事項ではあるが、明治10年代の古くより神戸に滞在していたイタリア人C.M.Mancini(1880年に没)
と、同地に滞在していた仏人女性との間に日本で生まれたのが、このC・マンチニだった可能性が高い。だとすれば、日本生まれのこの男は日本語も巧みな、在日二世だったということになる。両親の希望により、10代の後半にはイタリア本国の学校へ入学したようだが、その時期以外は日本で育った。
マンチニは自転車愛乗家であり、当時神戸で行われた自転車競走会には、選手として度々参加している。また神戸に自動自転車が到着してからというものは、真っ先にこれを乗り回し、神戸から九州地方までの遠乗り旅行を決行した。これはモーターによる最初の長距離旅行として、神戸又新日報にも報じられたが、西日本初のモーターサイクリストとして、開拓者の筆頭に挙げるべき人物だったことは間違いないだろう。乾電池点火でクラッチも持たないパイオニアマシンの時代に、これだけ積極的にモーターサイクリングに挑んだ者は、ほかにはまずいなかったのである。
4輪自動車が到着し、ニッケル商会の主人、C・ニッケル(この人物はドイツ人であった)が、自動車を乗用するようになってからも、マンチニはオートバイばかり愛用していた。その点においても、生粋のモーターサイクリストだったといえよう。
また明治末期に岡山市で蒸気式4輪乗合自動車を製作したといわれる山羽虎夫が、蒸気エンジンを採用する際に助言をもらい、その構造について教示を受けたのも、このマンチニからだったと伝えられている。
2.12.4 広島の先覚者柴義彦
神戸のマンチニの影響を受け、オートバイに挑んだ日本人として、詳細な記録が残っているのが、広島市の柴義彦(1881〜1946)である。柴は広島のモーターサイクリスト第一号であり、自ら自転車店も開業し、のちに広島自動車界の発展に献身した先覚者であった。
柴は陸軍第五師団(在広島)の主計監だった父の四男として、広島では名門の家系に生まれ育っていた。当時としては三種の神器ともいえる、猟銃、自転車、写真機など、斬新な趣味はすべて使いこなす、ハイカラ紳士だったのである。この柴がマンチニやオートバイと遭遇した青年時代の思い出を記した、晩年期の手記が残されており、また本人が撮影した貴重な写真も、ご子息の手によって保存されている。
その手記によると、柴義彦が初めてオートバイを目撃したのは、マンチニが神戸から下関までオートバイに乗って旅行し、広島を通過した時だったという。マンチニはベルトプーリを固定するナットを紛失し、これを修理するために、広島市大手町一丁目(当時)にあった鳥飼自転車店にやって来た。この自転車店の主、鳥飼繁三郎の友人であり、すでに自転車愛乗家でもあった柴は、マンチニのオートバイに強く惹かれ、一度乗せてもらいたいと頼んでみた。するとマンチニはすぐに承諾し、広島練兵場(現在の広島球場)で試乗してみることになった。これが病みつきとなった柴は、さっそくマンチニに、一台世話してほしいと依頼したという。
やがて神戸の橋本商会に中古品があるとの知らせを受けた柴は、すぐに鳥飼繁三郎を連れて神戸を訪れた。ところがその中古品とは、エンジンから自転車まですべてバラバラに分解された、どうしようもない難物であった。ぜひ1台組み立ててもらえないかと頼んでみたが、橋本商会では組み立てても動く保証はないとのこと。それでも諦めきれない柴は、とうとうバラバラの5台分を、まとめて安く購入してしまう。
その後の柴は、広島でこの中古品の組立に弧軍奮闘するわけだが、その顛末については、本人の手記をそのまま引用してみたい。過去にも何度か転載(文献1・2)されたものではあるが、当時を知る本人の生の声として、非常に興味深い内容である。
「早速組立にかかったが、エンジンの構造も知らず発動機の原理も知らず、幾度も組み替えてみたが動かない。朝から晩迄、夜の夜中にも起きて動かそうとしたが動かない。鳥飼にも一台組み立ててみる様命じておいたが、これも動いたと言ってこない。この間一週間がたった。一週間目の朝、自分はのぼせのため鼻血が出ると言った具合、それでベルトを外して、自転車として乗って鳥飼のところへ行ってみたが、これも動いていない。
そこで自分はもう一度組み替えて見て、動かなければ、たたき壊してエンジンを取り除き、自転車として乗ると言って、根気よくまた分解して組み立ててみた処、爆発らしいポンポンという音がしたのでこれに力を得て、また分解して組み直したところ、足で踏まないで自動的に初めて動き出したので、勇気が出てもう一度組み替えてみたところ、本当に動き出した。この時の嬉しかった事は今でも忘れられない。そこで早速一尺ざしを割ってプラグの穴から差し込んでみて、ピストンの位置、発火の位置を知った訳で、無謀といえば無茶な話である。始め考えたのは、今から思えば、実に滑稽な話で、ガソリンを吸入したものに点火すれば、ピストンが動くように考えた為と(圧縮したものに点火することは全く考えていなかった)、ピストンが上にあがると、ガスが逸る(排気してしまう)もののように思えた。其の当時は、誰一人この原理を知っている者もなく、教えてもらう事も出来なかったし、教科書もなしで、今から考えると実に無謀千万な事であったと思う。しかしこれでガソリン発動機の理屈が判ったので、あとの四台も早速組み立てて、同志に分譲してしまった。始めて動いたときの嬉しかった事は、終生忘れる事が出来ない。」
以上のような暗中模索の果てに、柴は先駆的モーターサイクリストの一人に加わることになった。そして「これもC・マンチニ氏のお陰だったと、今も感謝している」
と記している。
手記中、ガソリンエンジンの原理さえ知らずに苦悩した様子は、じつに実感あふれる貴重な証言といえよう。これも当時のパイオニアならば、東京の吉田眞太郎らでさえ、いや洋の東西を問わず誰もが一度は通過した、悪夢のような体験であった。しかしエンジンが初めて動いた時の感動は、先の吉田眞太郎も記していたように、まさに無上の喜びだったのである。
(写真1)は当時の柴義彦と、彼が組み立てたオートバイの写真である。撮影場所は柴家の邸内とのこと。また鳥飼自転車店の前で撮影された(写真2)の右側にも、よく似たオートバイが1台写し出されている。この2枚の写真は、柴自身が撮影し、のちに太平洋戦争中に疎開品の中に入れられていたために、運よくガラス乾板のまま残されていた。柴は広島で被爆し、翌昭和21年に他界したが、写真はご子息の柴彰彦氏の手によっていまも大切に保管されている。
2.12.5 柴義彦オートバイ組立の時期
ところでこの写真の撮影時期、また柴がこのオートバイを組み立てた時期については、残念ながら確かな記録が残っていない。この一件を調査し、収録した日本自動車工業史稿(文献2)では、その時期を1898(明31)年と認め、「わが国最初の二輪自動車組立」であるとしていた。だが筆者はその説には大いに疑問を抱いている。というよりも本件に関しては、ここではっきりと旧説を否定しておくべきだろう。このオートバイ組立は1902(明35)年か、どんなに早くとも1901(明34)年の終わり頃に行われたものと考えられる。
なぜならば、史稿の明治31年説の根拠となったのは、柴の手記の断片的な記述を拾ったものにすぎず、柴自身もこれを明治31年の出来事と明記していたわけではない。また第一に、この形状のオートバイ(米国製と思われる)の販売が始まったのは、1900(明33)年以降のことであり、1898年という早い時期にこのようなオートバイが生産された記録は、世界中捜してもまず発見できないだろう。またそれが日本に渡り、バラバラの中古品となるまでには、さらに歳月を経ていたはずである。上述の神戸又新日報の記事にも明記されているとおり、神戸に初めて自動自転車が到着したのは明治34年であり、マンチニが九州へ旅行したのは翌35年のことである。また鳥飼繁三郎の回顧録(文献3)によると、鳥飼がオートバイを初めて目撃したのは、明治34年のことであり、それは神戸でマンチニが操縦していたという。これらの状況をふまえて判断すれば、明治31年という時期は、あまりに早すぎる設定というほかはない。
(写真2)に映る4人乗りの4輪自動車は、前節にも登場したオールズモビルのカーブドダッシュである。これは柴義彦と鳥飼繁三郎ほか何名かが共同出資して、まさに前節に登場した松井民治郎のモーター商会から、直接購入したものであった。柴ら広島の先覚者達は、吉田眞太郎らが東京で発行した雑誌「輪友」を注視して読んでおり、東京で展開されたモーター界の胎動に機敏に反応し、いち早く広島の地でこれを走らせ、貸し自動車および乗合自動車として運行させようと計画したのである。このオールズモビルを東京から広島に運び込み、運転の指導にあたったのは、アベンハイムに雇われていた日本人運転手、林平太郎だったといわれる。柴らはオールズモビルを二人乗りから四人乗りへと改装し、柴が運転手を務めるかたちで運行を試みたが、あまりに非力なエンジンと悪路に阻まれ、この広島初の、いや関西初の乗合自動車計画はあえなく頓挫した。
オールズモビルがモーター商会に到着したのは、前出の金輪倶楽部競走会(明治35年4月)の直前であったことを考えれば、(写真2)は競走会の何ヵ月かあとに撮影されたものであろう。したがってここに写るオートバイが組み立てられたのは、やはり明治35年ということになる。
余談だが、広島の乗合自動車計画は、さらに3年後の明治38年2月にも再度試みられている。この時使われた12人乗りのバスこそ、吉田眞太郎が製作した国産第1号ガソリン自動車(ただしエンジンは米国製)であった。吉田は3カ月間広島に滞在し、双輪商会製作のバスを運行させるために奮闘したが、これもエンジンの非力と悪路、さらに馬車屋による営業妨害と破壊工作にも会い、無惨な結果に終わっている。車輌が未熟だったためと、時期尚早が原因であった。
また(写真2)にも写る鳥飼繁三郎は、その後明治40年頃に上京し、吉賀という知人と共同で有楽町1丁目に、ケーエス自動車商会という自転車からオートバイ、自動車までを扱う店を開業した。この鳥飼の店には、明治40年代の東京の著名なオートバイ愛好家が多く出入りしていた。鳥飼は明治末期になると飛行機製作にも手を出し、見せ物としての飛行会が流行ると、興行師に転じて全国を回り、大正2年には北海道で自ら操縦悍を握ってみせるが、見事に墜落して興業は大失敗、飛行界を追われる身となった。鳥飼とは、ダルマ自転車の時代から、次々と新発明の機械の流行に乗って転身し、やがて日本航空史にも名をとどめた、じつに器用な男だったのである。技術者と業師が混然一体となって活躍した明治期ならではの、時代の寵児だったともいえよう。
広島の地からは柴、あるいは鳥飼のような先覚者が登場し、時代をリードする先進的な試みが展開されたわけだが、その背景には神戸のマンチニや、東京の吉田眞太郎などが常に見え隠れしながら、絡み合っていたことも忘れてはならない。
2.12.6 ピアス号オートバイの怪
柴義彦が撮影した2枚の写真に写るオートバイについて、読者はすでに、前出のトーマス号またはミッチェル号に似ていると気付かれたかもしれない。確かにその形状は、どれをとっても両車に酷似している。また当時の米国の記録をくまなく調べてみたが、この形状に該当するものは、有名メーカーのうちではトーマスかミッチェル、どちらかのパイオニアマシンしかない。
ただしこの2台は上述のように、いずれも橋本商会から購入してきたバラバラの中古品をもとに、柴、鳥飼の両氏が組み上げたものであった。そのため完全な原型をとどめていない可能性もある。細部をすべてチェックしていくと、そこにはトーマスとも、ミッチェルともつかない、曖昧な部分が何ヶ所か確認できる。
1900(明33)年〜1902(明35)年ころの米国では、トーマスやミッチェルによく似た、弱小メーカーのオートバイが数種販売されている。つまりトーマスやミッチェルの模倣品が出回っていたわけである。また名も無い試作品のようなものが日本へ渡ってきた可能性も考えれば、広島で組まれたこのオートバイを、無理にトーマス、ミッチェルのどちらかに結び付けることは危険なように思われる。柴が組み立てたのは、米国製の不明オートバイということにしておきたい。
ただしここで無視できないのは、鳥飼自転車店前の(写真2)に写るオートバイのタンクマークである。この写真を拡大して見ると、タンクの横には、明らかにピアス・モーター(Pieace
Motor)と書かれている。ピアスとは、当時横浜の石川商会が輸入元になって全国に販売していた米国製自転車のことであり、一本の矢が描かれたそのマークも、ピアス号自転車のエンブレムによく似ている。
ところが、米国のピアス社がオートバイ生産を開始するのは1905(明38)年からであり、この時期に、ピアス社がこのようなオートバイを製作したという記録は、米国にも残っていないのである。結局のところ、これは誰かがピアス自転車の宣伝のために、手書きで書き上げた、即席のマークだったのかもしれない。同じ写真の左側には、1台のシャフトドライブの自転車が写っているが、これもピアス製の自転車のようである。
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- 文献1「広島県自動車整備の歩み・広島県自動車整備振興会25年史」昭和54年広島県自動車整備振興会発行
文献2「日本自動車工業史稿」昭和40年10月
(社)日本自動車工業会発行
文献3「鳥飼繁三郎君の思い出」雑誌「自動車之日本」昭和2年6月号掲載
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- ●写真解説
写真1:柴義彦と彼が組み立てたオートバイ。1902(明35)年頃
写真2(Title Photo)
写真3・柴義彦と鳥飼繁三郎が共同経営した自転車店の広告(1908・明40年4月8日付「中国」新聞より)。柴は明治40年7月まで鳥飼自転車店の共同経営者を務めたが、後に鳥飼は上京、銀座に店を開いた。また柴義彦は柴商店と改名して広島市京橋筋に独立、宮田製(国産)旭号自転車の関西一手代理店となった
●脚注
1)生産国や型式は不明。また輸入した商館の名も定かでなない。
Title Photo
(写真2):1902(明35)年、鳥飼自転車店前のオールズモビルと不明オートバイ。運転席が鳥飼繁三郎
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Copyright ゥ 1994-2001 / Kikuo Iwatate
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- Printed as "Nihon Autobi Shiron" on
"Motorcyclist extra edition"(Yaesu Publishing
Co.)1992-1994
- Last Updated 7th July
1995
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