日本自動車百年史 第2章 明治・二輪編

第11節 金輪倶楽部競走会自動車試運転
- 2.11.1 日時と場所の確認
2.11.2 各車の識別
2.11.3 過去の定説
2.11.4 モーター商会
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日本に初めて6台のモーターが勢揃いした、1902(明35)年の金輪倶楽部競走会の参加車について、もう少し検証してみたい。
前号で初めて公開した、梶原利夫氏(自転車史研究家)が発見した写真(上)に写る6台の車名推定については、すでに概略を述べた。この6台は、いずれも自動車、オートバイ輸入の嚆矢として、戦前期より伝説的に語り継がれてきた車ばかりであり、これまで多くの推察と議論が重ねられ、霧中をさ迷っていた幻のパイオニアマシン達でもある。その6台の実体を示す映像としても、第一級の史料が発見されたわけであるが、この6台がこの日、同じ場所に並んでいたという事実は、今まで不明瞭だった明治30年代中期の日本自動車史の謎を解き明かす一つの鍵を、われわれに与えてくれる。以下にこの6台の車の実在によって浮かび上がった、歴史のクロスワードパズルを、順を追って組み立ててみよう。(以下には四輪自動車が多く登場するが、これは決してオートバイ史の分野から外れようとするものではない。前述のように明治30年代中期の日本では、二輪のモーターも自動車と呼ばれ、二輪、三輪、四輪が混然としていた)
2.11.1 日時と場所の確認
まず問題の写真が撮影された日時と場所の裏付けだが、この写真の台紙には当時のメモが記してあり、
「35・4・5、金輪クラブレース、
モーター商会、自動車倶楽部員」
と書かれていた。これは、35・4・5(=明治35年4月5日)に行われた金輪クラブレースでの写真と解釈できよう。「金輪倶楽部」とは、前掲した表(明治34年東京の主要自転車倶楽部)にもあるとおり、当時確かに東京に存在していた。またモーター商会も、後述のように、この時期には営業中であった。
そして写真に写る背景を見ると、この場所は、当時大規模な自転車競走会が繰り広げられた上野不忍池そのものである。明治34年11月3日の大日本双輪倶楽部秋季大競走会の写真(第8節参照)と比較すると、まったく同じ位置で撮影されたことがわかる。
となれば、はたしてこの日付に不忍池でそのような自転車競走会が開かれたかどうか?だが、以下の新聞記事によって、その事実を確認することができる。
●明治35年4月5日付(3頁)萬朝報
「金輪倶楽部競走会・いよいよ本日正午より不忍池畔に開会。(中略)モーター商会及び木挽町双輪商会、オートモビル及び自働車試運転あり」
また同日付けの同新聞は、別枠でこの自動車クラブについての紹介記事を掲載した。
●「自動車倶楽部・金輪の競走会にも出る自動車について興味を感じる人多しと見え、同部は会員の申し込み甚だ多く、来る十五日限りで其の募集を了し発会式を上野公園に催す筈にて、二人乗り瓦斯式三台蒸気式一台の新車両はすでに到着したり。尚同倶楽部の申込所は銀座モーター商会及び木挽町双輪商会の二ヶ所なり」1)
さらに翌日付けの同新聞は、この自動車試運転が予定通り実行された旨を記している。
●明治35年4月6日付(5頁)萬朝報
「金輪倶楽部競走会の景況・(中略)此外に曲乗及び自動車の試運転ありて六時頃散会したり」
上記の新聞記事によって、写真の自動車試運転が確かにこの日、不忍池で行われていたことが証明できる。また事前に「瓦斯式(ガソリン式)3台、蒸気式1台の新車両」が到着したと伝えているが、この新車両の試運転が行われたとも考えられる。
2.11.2 各車の識別
金輪倶楽部の自転車競走会で行われた自動車試運転に参加した6台の車名を、筆者が推定する根拠は以下である。(写真左側から)
【1】四輪自動車
蒸気式ナイアガラ
形状が、本編第5節にも登場した下の新聞挿し絵(写真2)によく似ている。ナイアガラとは、ブルウル兄弟商会のアベンハイムが日本で最初に走らせたと思われる二人乗りの米国製蒸気自動車で、前年の6月19日に、自動車としては初めて新橋−横浜間を1時間56分かけて走破した。2)


また雑誌「輪友」創刊号グラビアに掲載された左の(写真3)と、上のモーター商会の広告(写真4)の2点も、車名には触れていないが、(写真2)と同じナイアガラだったと思える。さらに(写真11)のモーター商会店頭の写真左側に見える四輪自動車も、その外観は同車に非常に近い。よってナイアガラならば、金輪競走会の前年に到着していた事は間違いない。ちなみに日本で撮影されたと思われるナイアガラの写真は、ほかにはまだ発見されていない。
【2】四輪自動車 オリエント
この車は、レバー式の左ハンドル、横置きのリーフスプリングなどをはじめ、細部の特徴がすべて、(写真5)のガソリン式二人乗りオリエント・ランナバウトと合致している。
オリエントについては、明治35年1月26日にアベンハイムが新橋−横浜間を59分で走破した詳細が、同年2月5日付けの英字新聞
"The Japan Weekly Chronicle"
に記録されている。したがってオリエントが明治35年1月までに日本に到着していたことは間違いない。
また金輪競走会の2ヶ月後の東京朝日新聞には、(写真6)のさし絵と共に、1台の自動車が東京神楽坂でガス欠のため立ち往生した事件が報じられた。この記事も車種に言及していないが、スケッチされた車はオリエントに酷似している。
日本で撮影されたオリエントの写真としては、【2】は最初のものとなるだろう。
【3】四輪自動自転車
オリエント
このクォードラィシクル(四輪自動自転車)は、まず第一に、前年から吉田眞太郎が乗り回していたグラディエートルに見えなくもない。しかし細部に2、3の相違点があることと、前述のようにこの時吉田のグラディエートルが大修理中だったことを考えれば、別に新たな1台のクォードが日本に輸入されていた可能性が生じてくる。
このクォードを、当時欧米で数多く製作された同形車の写真と可能な限り比較してみたが、これは(写真7)にもっとも近い。しかもその製作者は、上記オリエント・ランナバウトと同じ、米国のウォルサム社(時計で有名な)である。時計輸入で実績のあったブルウル兄弟商会が、この2台のオリエントを同時に輸入していた可能性は低くないだろう。
ブルウル兄弟商会がオリエント製クォードを販売しようとした形跡は(写真8)の英字新聞に掲載された広告によって立証される。この広告の日付は、金輪競走会の一ヶ月前の3月6日であった。広告によると、このクォードのモデル名は、オート・ゴー(Auto-Go)だったようだ。3)
これらの理由から金輪競走会に参加した【3】は、吉田のグラディエートルとは別の、オリエント製クォードラィシクルだったのではないかと推察する。
オリエント製クォードについては、グラディエートルに続いて日本で走行した2台目の四輪自動自転車(の可能性)として、本来ならばさらに掘り下げたいところだが、残念ながらこれ以上確かな資料は、まだ発見できていない。ただ過去の日本自動車史では、オリエントなる自動車およびオートバイについて、何度もその存在が噂されてきた。詳しくは後述するが、その伝説の謎を解く手掛かりとして、拙論はあえてオリエントのクォードラィシクルを登場させてみた。
【4】二輪自動自転車
トーマス
第7節で登場した(写真9)のトーマス・オート・バイにもっとも近い形状をしている。
トーマスが前年の9月に東京に到着し、稲毛海岸まで試運転したあと、双輪商会で委託販売が計画されたことは前述のとおり。だが(写真11)のモーター商会店頭写真の中央に見える二輪自動自転車も、同車に酷似している。モーター商会も、双輪商会と同様に二輪のトーマスに関っていた可能性は高い。
【5】四輪自動車
オールズモビル
この特徴的な形状は、誰が見ても問題なく、オールズモビルのカーブドダッシュと認めるに違いない。(写真11)の右側に写る四輪自動車も同車である。
このオールズをブルウル兄弟商会が輸入し、モーター商会が販売したことは、戦前期より多くの人々によって証言されてきた。ただ金輪競走会への参加は、日本での同車の足跡として、もっとも早い時期の記録である。
【6】三輪自動自転車
トーマス
最後の6台目は、二輪トーマスと同様に、第8節で登場した(写真10)のトーマス・オート・トライと思われる。ほかにこのようなトライシクルが東京で走行した記録はまだなく、形状も三輪トーマスと一致する。
以上、6台の車名を特定するために要点だけを述べてみたが、この6台は全車とも米国製であり、すべてブルウル兄弟商会のアベンハイムが輸入し販売を試みた車だったことも特記しておきたい。
6台のうち【1】、【2】、【5】の3車は歴史上、明らかに四輪自動車の範疇に入るものである。しかしこれらとて米国で自動車の生産が始まった当初の、まさにパイオニアマシンであった。どれもまだウィンドシールドすら持たず、二人乗りの超軽量車で、しかも1台は蒸気エンジンであり、もう2台のガソリン車にしても単気筒であった。つまりトライシクルやクォードラィシクルのエンジンを少し大きくして馬車用の木製ボディを乗せただけの、原始的な四輪車だったのである。ちなみにもしこの6台が、完全な状態で本当に競走したとしても、前年の双輪競走会の時と同様に、二輪トーマスが最速だったかもしれない。そんな草創期のモーターを代表する、典型的なラインナップだったといえよう。
また忘れてならないのは、この写真の中には、当時を語る上で欠かせない重要人物が何人か写し出されているはずだということ。ところが今となっては、その確認が非常に困難になってしまった。この中にはモーター商会社主の松井民治郎や、双輪商会の吉田眞太郎、また恐らくアベンハイム本人や、彼の個人的な運転手だった林平太郎らがいることは、想像に難くない。
2.11.3 過去の定説
さてここで少し視点を変えて、いままでに自動車史界の先達諸氏が探求し、書き残した記録を抄録し、上記6台の記録と照合してみたい。過去の史説の代表例としては、おおむね以下が挙げられる。(文中、赤字の部分は、現在までに確認された誤謬であり、脚注で補正している)
●「日本自動車業界史」(昭10)永田詮氏説
明治33年に至って横浜市居留地のアベンハイム商会の手でオリエント蒸気自動車が輸入された。これが日本に初めて現れた自動車とされている。翌34年には同商会はオールズモビル二人乗りガソリン自動車を輸入した。同年には東京銀座にモーター商会が生まれて、オリエント号を受け売りした。4)
●「日本自動車史・明治編」(昭12、17、30年版)尾崎正久氏説、
明治34年11月、東京銀座4丁目1番地にモーター商会という看板が掲げられた。横浜居留地のハルベンハイム商館の依頼により、同商館と取り引きのある松井民治郎氏が、同商館が見本として輸入した一台のオリエント自動車を販売するためであった。しかし自動車の何物であるかを解せず、運転の方法さえ一人として知らぬ時代に、自動車の売れる見込みはなかった。モーター商会は、物見高い東京人に賑やかな話題を振りまいたに過ぎなかった。なお35年春には、ブルーウェルのトーマス二、三輪も陳列した。
我が国に二輪自動車が輸入されたのは、明治35年横浜のアンドリュース、ブルーウェル兄弟商会等が、見本車各一台、トーマス及びオリエントを輸入したが、これは商品というよりも、外人支配人が自用車として携行したものであったようだ。5)
●「二輪自動車史話」(昭30)中根良介氏説
日本人で最初にビジネスとして自動車を輸入したのは東京銀座のモーター商会(店主松井民治郎氏)だ。明治34年1、2台のオリエントと称する蒸気自動車を輸入した。輸入といっても、未だ直接欧米のメーカーと取り引きしたわけではなく、横浜の商館が輸入した車を引き取ったに過ぎないのだが、さらにプール兄弟商会で輸入した米国製のトーマス自動車も輸入したといわれる。このトーマスには四輪車ばかりでなく、三輪車およびオートバイもあり、当時のカタログに記載されていたそうだが、実物を扱ったかどうか明らかでないのが心残りである。
モーター商会は間もなく資金難のために閉店し、店を同じ銀座で双輪商会なる自転車店を経営していた吉田真太郎氏に譲渡した。吉田氏は明治40年代に吉田式国産自動車17台を作った先覚者であるが、明治35年、横浜の商館アンドリュース・ジョージ商会が輸入した乗用三輪自動車オードライを扱ったといわれる。元来自転車からスタートした自動車ファンでもあり、三輪自動車と前後してオートバイも輸入したであろうと推察されるのだが、それについても確実の記録がない。6)
●「日本自動車工業史稿」(昭40)の説(巻末年表より)
明治34年、東京四谷の自転車販売業松井民治郎氏は、銀座2丁目にモーター商会を設け、自転車販売のかたわら、横浜のアベンハイム氏と提携して同外人が輸入したオリエント号蒸気自動車1台をまず店に陳列し、続いてオールズモビル短気筒ガソリン車も陳列して、銀座の人目を奪った。
明治35年、銀座の双輪商会主吉田真太郎氏は、横浜のアンドリウス・エンド・ジョージ商会が輸入した自動二輪車、および自動三輪乗用車オードライ号の販売を計画した。7)
●「小型自動車発達史」(昭43)の説
明治30年頃から同37年頃まで自動車を輸入していた東京銀座の松井民治郎氏経営のモーター商会が横浜在住のエベリー・ハイム氏の輸入した蒸気自動車オリエントと、当時ブルー兄弟商会輸入した米国製自動車トーマス号とを販売したという記録があるが、このモーター商会の型録には二輪、三輪、四輪の各トーマス号が載っていた。しかし輸入台数はわずか数台のことであり、果たして二輪車が実際に輸入されたかどうかは明らかではない。8)
以上のように先達諸氏の説は、名前の表記や年代に多少のずれはあるものの、総論としては、ほぼ同じ事項に言及している。一部には大きな事実誤認もあるが、口伝中心の調査を経てこれらをまとめあげた功績は、決して失われるものではなかろう。
さて上記各説の事項のうち特に注目したいのは、ガソリンエンジン車だったオリエントがすべて蒸気式に取り違えられていること。また同じアベンハイムの手でオリエントより一足早く輸入されていた、本物の蒸気式のナイアガラについては、一切触れられていないことである。これは奇妙なことと言わざるを得ない。恐らく最初にナイアガラが輸入された明治34年当時は、まだこの機構を理解できる日本人は皆無に等しく、アベンハイムも横浜の居留地を拠点にナイアガラを走らせる、孤独なモータリストにすぎなかったからかもしれない。そのためナイアガラとオリエントが混同されたのではないだろうか。9)
次にこのオリエントが1、2台あったとする説や、オリエントには二輪自動車もあったという複雑に交錯し合った説についても注目して見たい。この混沌とした伝説が、のちに蒸気式のオリエントなる二輪車(あり得ないことである)が到着したとする、誤謬の副産物まで発生させる原因となっていた。
しかしこの矛盾した伝説にしても、もしかりにその交錯した諸説の渦中に、オリエントの四輪自動自転車、つまり【3】のクォードラィシクルの存在を投入してみればどうなるであろう。いままで不可解だった伝説も、あながち全く根拠のない話ではなかったのかもしれない、ということになり得るのではないだろうか。
以上、金輪競走会の写真発見によって示された6台のモーターの存在は、過去半世紀以上に渡り日本オートバイ史、自動車史上をさ迷いつづけた幻影を定かなものとする、大きな手掛かりを与えてくれたと思われる。
この日の自転車競走会は、草創期のオートバイ、自動車史上、主要な先覚者達が一堂に集結した、最大の晴れ舞台だったに違いない。前年の双輪競走会に集まった3台の写真も合せて考えれば、不忍池は日本のモーター史の幕開けを告げた、非常に重要なステージだったということになる。
2.11.3 モーター商会
ここまでに何度も登場した銀座のモーター商会についても、触れておかなければならない。この商会は日本初の自動車商として、自動車史の上では、昔から語り継がれてきた存在である。そして双輪商会と共にオートバイの販売を試みた、オートバイ史上の先覚者ともいえる。
モーター商会はその名の通り、モーターの販売を目的として、松井民治郎(1865〜1948)によって明治34年に銀座で発足した。木挽町の双輪商会から、わずか数百mの場所である。松井は横浜の別会社に勤務していた際に、ブルウル兄弟商会のアベンハイムと知己を得て、アベンハイムが輸入した自動車を販売するつもりでモーター商会を開業させ、独立したと思われる。
明治35年3月には、双輪商会と連名で自動車倶楽部の発足を目論み、雑誌「輪友」に(写真12)のような会員募集広告を掲載した。これは金輪競走会の前月にあたるが、同じ時期に萬朝報に掲載した広告(写真13)を見ると、まだ自動車よりも自転車の販売を主力としていた様子がうかがえる。
モーター商会は、前出のオリエントや、オールズモビルの四自動車を販売した確かな記録が発見されている(文献2)。そしてオートバイの販売にも関わったことは、上記した過去の自動車史にも何度か登場した。また(写真11)のモーター商会店頭の写真を見ると、そこにはトーマス・オート・バイと思しき二輪車が1台並んでいる。
これらの状況から察して、モーター商会がアベンハイムの輸入したトーマスを販売しようとしたことは容易に想像できよう。結局のところ、二輪と三輪の2台のトーマスは、双輪商会かこのモーター商会のどちらかが、日本人に販売したのではないだろうか。
以上のようにモーター商会は、双輪商会と共に、オートバイに関わった最初期の日本人販売店と考えられるわけだが、この両店はどちらも、モーターの分野で成功を得ることはできなかった。モーターの現物はアベンハイムが輸入してくれたとしても、まだ日本人でこれを購入し、使用する者は中々現われなかったのである。右の広告Mを見ると、ここにはモーターはなく、自転車だけが記載されている。(写真11)の写真をみても店内には自転車が多く写っており、経営的には自転車を扱うほかはなかったようだ。
ただし時期尚早のために、目的が叶わなかったとしても、このモーター商会が重要な開拓者の役割を果したことには変わりない。とくに店主の松井民治郎は、吉田眞太郎と共に、明治期自動車界最大の功労者だったといっても過言ではない。金輪倶楽部競走会の自動車試運転も、その中心人物は松井だったと考えられる。
モーター商会は、日露戦争(1904〜1905)勃発の余波を受けて明治38年2月に解散した。松井は自動車業をあきらめ、平壤に渡り、やがて朝鮮で実業家としてまずまずの成功を納めた。もし彼が日本に留まっていれば、アベンハイムや吉田眞太郎らについての貴重な証言が得られ、明治期の日本自動車史は、もう少し確かな形で残されたはずであろう。しかし今となってはすべてが遠い話となってしまった。松井は長寿を保ったが、太平洋戦争直後に、北朝鮮の収容所で没したと伝えられている。
- 文献1「日本自動車史の資料的研究」1977〜1992
中日本自動車短期大学 大須賀和美教授
文献2「本邦初の自動車販売店モーター商会について」佐々木烈
1990年「明治村通信」連載
文献3 "Auto Mobiles" G.D.Hiscox 1900
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- ●写真解説
写真1:1902(明35)年4月5日不忍池金輪倶楽部競走会自動車試運転(再掲載)
【1】四輪自動車 蒸気式ナイアガラ
写真2:1901(明34)年6月20日付二六新報「新輸入の自働車ナイアガラ」より
写真3:1901(明34)年10月号「輪友」より
写真4:1901(明34)年3月12日付萬朝報モーター商会広告
【2】四輪自動車 オリエント
写真5:1902(明35)年1月24日付"The Japan
Times"ブルウル兄弟商会広告
写真6:1902(明35)年6月4日付東京朝日新聞「自動車のあと押し」より
【3】四輪自動自転車 オリエント 写真7:「オリエント・クォードラィシクル」(文献3)
より
写真8:1902(明35)3月26日付"The Japan Weekly
Chronicle"ブルウル兄弟商会広告
【4】二輪自動自転車 トーマス
写真9:1901(明34)年11月3日大日本双輪倶楽部秋季大競走会でのトーマス・オート・バイ
【5】四輪自動車 オールズモビル
写真11:東京銀座4丁目モーター商会(文献1より)
【6】三輪自動自転車 トーマス
写真10:1901(明34)年11月3日大日本双輪倶楽部秋季大競走会でのトーマス・オート・トライ
写真12:「自動車に試乗すべし」1902(明35)年4月号「輪友」より
写真13:1901(明34)年3月18日付萬朝報モーター商会広告
●脚注
1)この記事中にある「自動車倶楽部」とは、モーター商会と双輪商会が連名で、日本初の自動車(二輪も含む)クラブの設立を呼びかけたもので、(写真12)のように、この時まさに会員を募っていた。まだ自動車のオーナーが、日本人では吉田眞太郎(しかもそれは四輪自動自転車グラディエートルだった)のみだったような時期に、自動車クラブの発足とは、何とも先走った話だが、このクラブの実体は、まず世に自動車を知らしめんとして、会員制の貸し自動車業を目論んだものであった。この記事では入会申込者殺到中と書いているが、じつは扇動的な宣伝効果を狙ったもので、この企画は成功せず、やがて日本初の自動車倶楽部計画は雲散霧消することになる。
2)明治34年6月20日付二六新報「新輸入の自働車ナイアガラ」、および同年6月22日付英字新聞"The
Japan Weekly Mail"「Automobile Trip to
Tokyo」に記載。
3)オリエント製クォードラィシクルについては、当時の米国のモーター関係の雑誌にもあまり言及されていない。おそらく製作台数は、トーマスよりもさらに少なかったと思われる。
4)オリエントは「蒸気」式ではなく、ガソリン車だった。日本へは明治31年すでにパナールが渡来していた。
5)「ハルベンハイム」とはアベンハイム、「アンドリュース」は商館アンドリュース・ジョージ、そして「ブルーウェル」はブルウル兄弟商会のこと。トーマスは明治34年に到着。また二輪の初輸入は明治29年のH&Wである。
6)「ブール兄弟商会」とはブルウル兄弟商会。トーマスは二輪と三輪だけ輸入されたと思われる。吉田眞太郎が扱ったのは「オードライ」ではなく、明治34年にブルウル兄弟商会が輸入したトーマスのオート・トライだった。
7)オリエントはガソリン式。「オードライ」は、ブルウル兄弟商会が輸入したトーマス・オート・トライ。
8)モーター商会は明治「30年」ではなく34年から。「エベリー・ハイム」はアベンハイムのこと。
9)上記各説の有力な根拠となったと思われる、林平太郎(アベンハイムに雇われた日本人初の運転手)の回想録でさえが、オリエントを蒸気式と証言していた。またナイアガラは、ガソリンを燃料として蒸気を発生させており、外観上からもこれを見分けることは、困難だったかもしれない。
Title Photo
(写真1)
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Copyright ゥ 1994-2001 / Kikuo Iwatate
iwat@st.rim.or.jp
- Printed as "Nihon Autobi Shiron" on
"Motorcyclist extra edition"(Yaesu Publishing
Co.)1992-1994
- Last Updated 7th July
1995
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